2012年 第4号 Vol.167
 
 編集・構成 奥貫 晃

 
 発行人:今井 康了
 発行:日本特撮ファンクラブG
 

 はじめに

 このところ、朝夕めっきり寒くなってきました。季節のうつろいなんていうのはこんなものなのでしょう…最近はそんな感傷をよくいだきます。皆さんはいかがお過ごしでしょうか?

 
季節の変化より、時代の流れというものに目を回すばかりです。昔ながらの映画館がシネコンに変わり、フィルムからデジタルへの変化が急加速し、ミニシアターや名画座が一つまた一つと閉館になっていきます。つい最近も都内で一番古かった映画館、「浅草名画座」、「浅草新劇場」や「浅草中映劇場」の三館が耐震不足などの理由から閉館になり、寂しいことに日本の映画館発祥の地『浅草』から映画館が一つも無くなってしまいました。
 平成ゴジラ復活祭や113日にゴジラ誕生祭を開催している「銀座シネパトス」も同様の理由で、来年の3月までで閉館が決まっており、非常に残念です。
 今年も残すところ1か月余りとなりました。 振り返ると、今年初めには『ウルトラQ』のカラー版が制作され、ウルトラマンがハイビジョン化されてWOWOWで放送されました。来年初めからは『ウルトラセブン』が同局にてハイビジョン化放送される予定です。古い作品もハイビジョン化・デジタルリマスター化が進んでいるようです。
 
劇場作品では、『ゴーカイジャーVSギャバン』、『ウルトラマンサーガ』、『アキバレンジャー』など、今年の前半は特に粒揃いでした。反面、テレビ作品は伸び悩んだ感がありました。『特命戦隊ゴーバスターズ』はミニチュア特撮が頑張っているだけに、仮に失敗という事になるとこういうミニチュアに力を入れた作品はやりにくくなってしまうのではないかと気掛かりです。
 
ここ数年、度々話題にあがっている新作『ゴジラ』は、ハリウッドで来年の3月以降に撮影開始、2014516日に全米公開というのが決まったようです。再来年には生誕60周年となるゴジラですから、そろそろ国内でも新作をお願いしたいですね。

 今年は東京都現代美術館にて、「特撮博物館」が開催されました。来場者数が29万人を超えるといった大盛況で、特撮ファン以外の方々を集客できたのが大きな要因だったのではないでしょうか。また、何度も足を運ばれた特撮ファンの方も多かったと推察いたします。来年は地方での開催も決定しており、このような大がかりなイベントが続くことをこれからも期待しています。
 
そんな時代の流れの中で私たち日本特撮ファンクラブGは細々と、でも変わることなく「緯度G大作戦」の開催や会報発行を続けていきたいと考えています。

 今回の会報は、Gスタッフの山名千花による特撮博物館イベントの体験レポート、シネコン嫌いで「浅草名画座」の閉館で「俺はどこで映画を観ればいいだ?」と嘆いている鈴木聡司による特撮映画の雑記帳シリーズの番外編をおおくりいたします。
 特撮博物館 「ミニチュア特撮課外講座」                           執筆 山名千花

 今年の夏から秋にかけて東京都現代美術館にて開催された、館長・庵野秀明監督、副館長・樋口真嗣監督の特撮博物館。

 会期中、特別イベントがいくつかありましたが、そのひとつ「ミニチュア特撮課外講座」(828日)に運良く参加することができましたので、そのレポートをおおくりします。

 
●第一部は上映会・『懐かしのテレビ特撮セレクション』

ウルトラマンレオ より 第3話「涙よさよなら…」、ウルトラマン80 より 第44話「激ファイト!80VS ウルトラセブン」の2本が上映されました。

ツルク星人の回と、生き霊セブンが街をぶち壊し民家を投げて80と戦う回です。

どちらも初めて観ました(私は日の浅い特撮ファンなので、ウルトラシリーズは『Q』から順に観ていてまだ『セブン』までしか観ていないのです)が、衝撃的かつ劇的な笑撃作で、作中のミニチュア群に目を奪われつつも、あまりにあまりな内容に正気の屋台骨をユサユサ揺すられそうになる大変ハードな鑑賞体験となりました(笑)

こちらは当日入場の一般参加枠もあり、満場のホールであちこちから“ひでぇッ!”、“シュール過ぎる!”等の笑い声のあがる和やかな鑑賞会でした。

特撮物って大勢で観るとまたちがった楽しさがありますね♪

 ●第二部はお待ちかねの「ミニチュア特撮課外講座」

前半が〈ミニチュアエフェクトを体感する〉、後半が〈進化し続けるミニチュアエフェクト〉という構成でした。

休憩をはさんで、ここからは事前申し込みで抽選に受かった人のみの参加。3倍くらいの倍率だったと隣席になった人が言っていましたが、おかげ様で運良く当選できました。

締め切り直前に知り、ぎりぎりながらアンケートに特撮物に対する夢と希望をガシガシ詰め込んで申し込んだのがよかったのかもしれません。ありがたや、です。

〈ミニチュアエフェクトを体感する〉は、ステージに用意された石膏のミニチュアのビル群をはさんでスタート。

ゲストは本講座を主催されたデザインと造形の会社マーブリング・ファインアーツ(ホームページも面白いです。ぜひご覧になってください)の代表・岩崎憲彦さんと、カメラマンの桜井景一さん。

桜井景一さんは説明差し上げるまでもありませんが、『ゴジラ対メカゴジラ』を始め、平成のVSシリーズ等でご活躍の「撮影」の方で、『巨神兵東京に現わる』ではスタジオパートの撮影を担当されています。

そのお二方が、私たちの大好きな特撮映像に欠かせない技術、「パン・フォーカス(ディープ・フォーカス)」、「ハイ・スピード撮影」、「強遠近法」について、目の前のミニチュアビルを手に解説してくださいました。

  G会報読者の皆様はきっとそのあたりの事にはお詳しいと思うので、ひとつひとつの技術の説明は省きますが、実際目の前で、“これをこうやって、こう撮ったものをこう再生するとこうでしょ、でも、ほら、こう撮ってこう再生するとこんな風に観えるんだよ”、と見せて頂くと、特撮映像の特撮映像たるアメイジングさがよくわかり、シビレまくったあのシーンの感動はこうやって生み出されていたのか!と、感激もひとしおでした。


 桜井さんがご趣味で撮られたという短編怪獣映像『地底怪獣大襲来』(YouTubeで観られます)の上映もありました。

ミニチュアの列車と背後から線路を押し上げ地面を波打たせながら襲い来る謎の怪獣、運転手さん危うし!!!と手に汗握る迫力あるこの映像には、「虫の目レンズ」が使われているそうです。

 「虫の目レンズ」といえば、昆虫写真家の栗林慧さんが“虫の目線で写真を”と開発された「超深度接写」レンズです。普段から好きで虫の写真集をよく眺めている私には、特撮の場でその名前が聞けて嬉しかったです。

こうやって技術と技術が繋がって、より面白いものを!より面白いものを!と切磋琢磨されている方々がいらっしゃるおかげで、あんな凄い特撮映像を楽しませてもらっているのだなぁとしみじみ感動しました。

それに桜井さんの凄いところは、身近にある物を活用されているところ。『地底怪獣大襲来』の怪獣出現シーンは、ご自宅の怪獣人形と植木鉢と土で、土を手でバッと跳ねあげて表現。それがもう大迫力で、観ているこちらはひたすら唸るのみです。

“今はいいカメラがあるから、うちのあるデジカメでぜひご自分でこういうのをやってみてください。楽しいですよ”と、にこにこおっしゃっていました。

“では、実際にやってみましょう”と、お次はステージ上に用意されたミニチュアのビル群(ウルトラマン等で使用する石膏ミニチュアの縮小版だそうです)が隕石の落下によって破壊されるシーン作りの実演。撮影は桜井さん。

司会の方の“隕石を落とす係をやりたい人~?”の声に、一斉に手の上がる客席。もちろん、私も手を上げます。本物のミニチュアセットと、そしてそれが実際に破壊され、撮影されているところを間近に見る機会なんてそうそうありません。ミニチュア特撮好きなら、ぜひとも体験したいところです。

“はい、ではそこの女性の方!”なんと、ご指名頂いて私が「隕石落とし係」に任命されました。なんたる幸運!

そのときの様子は特撮博物館ホームページ上にもアップされておりますが、台に上がり眼下の1m四方くらいの机の上に設置されたビルのひとつを狙って落とします。机の前にはガラス板で仕切られて、机上の地上目線で備えられたカメラ、覗きこむ桜井さんとスタッフの方。

(“この角度でいいですか?”等の私の質問に、”はい。

そのままでいいですよ”と自然体でジェントルマンに答えてくださる桜井さん。素敵な御方でした)

そして…手を離した次の瞬間、ドゴンッ!という音とともに舞い上がる粉塵。

ほんの一瞬のことでしたが、その瞬間を先程ご講義頂いた「ハイ・スピード」技法で撮った映像を観せて頂くと、なんともいえないかっこよさ! まさにミニチュアエフェクトを”体感!”しました。

続いて、〈強遠近法〉のサンプルセットが登場。高架に電車、ビル、奥に巨神兵というセットで、二棟のビルが次々倒れるという設定。

こちらも客席より、監督、助監督、操演係等を募集しての撮影”実習”。

客席で観ていると、カチンコが鳴ったり、電車を引っ張ったり、ビルがツツッと倒されたりのタイミングや、ちょっとした物の位置の関係など、とても興味深かったです。

これまた完成した映像に客席から、感嘆のため息がもれていました。

前半を通して感じたのは、普段私たちの心を作品の世界の中に引き込んで思い切り遊ばせてくれるあの特撮映像の数々が、こうして人の手でひとつひとつ丹念に積み重ねられ、磨き上げられていったものであるという感動でした。

 大袈裟に聞こえるかもしれませんが、物に命を吹き込むとはこういうことかと、深い何かの手応えを頂いたように思いました。

さて、後半の講座は〈進化し続けるミニチュアエフェクト〉こと『ミニチュア特撮の将来像を探る』。

マーブリング・ファインアーツのマネージャー岩崎敏子さんを司会に、再び同社社長の岩崎憲彦さんと、特別ゲストとして撮研究所の尾上克郎さんがご登場。

尾上克郎さんは『巨神兵東京に現わる』では、監督補、特殊技術総括をされています。

まずは、海外のミニチュア特撮事情からと、ハリウッドのモデラーを紹介しPVSENSE OF SCALE』の短縮版の上映がありました。

マーク・ステットソンや『タイタニック』や『GODZZILA』のジーン・リザルディ、『1941』のグレッグ・ジーン等が登場。

(後日、こちらのPVはマーブリング・ファインアーツさんよりDVD発売(英語版)が決定したようです。ご興味ある方はぜひ!)

 観ていると、例えば美しい西洋庭園に佇む瀟洒な洋館の風景。実は洋館はミニチュアで、いくつかの棟を組み合わせ撮影、それを風景と合成。すると“えええ~ッ、こ、これがミニチュアワークなの!?”というようなうるわしい風景映像が出来上がります。

こ、このCG全盛のご時世に!?、と私のような素人は思ってしまいますが、現場により、また様々な必要性によって、ミニチュアワークがまだまだこんなにも活躍していることに驚きました。

日本のものとして、『私は貝になりたい』の刑務所や焼け跡のシーンも紹介されましたが、

(あの見張り台とか、何分の1縮小だったか忘れてしまいましたが、ミニチュアなんですね!ビックリです)、合成の技術のすごさで気が付かないだけで、私たち観客は今もミニチュアワークの恩恵、を思っているよりもずっと受けているのだと知りました。(『のぼうの城』の水のシーン、『宇宙兄弟』の月面シーンもミニチュアだとのことなので、これは観ねば♪と思いました)

よく“CG対ミニチュア”みたいな構図で語られることが多いですが、私はCGとミニチュアは別々の技術で、別々の味と特性があるので、シャーペンが登場しても鉛筆がなくならなかったように、サプリメントが安価で氾濫するようになっても人はやはり美味しい物や誰かと囲む食卓に魅了されるように、それぞれのニーズのもと、それぞれの良さを活用されながら共存していくんじゃないかと思っています。

尾上さんは本講座で、“CGにはどうしてもないものが、ミニチュアにはある。それは「目の前に存在している」ということ。CGはマニュアルにあることまでしか出来ないが、ミニチュアはそこにあるもので撮れる。「目の前に本当にものがある」ということは、ただそれだけで人を惹きつける。本当にそこにものがあることが大切だ”とおっしゃっていました。私は深く共感したのでした。

また、尾上さんのお言葉で最も印象に残ったのは、

 “河原でバーベキューをするみたいに、河原にゴジラを撮りに行こうよ!”

でした。

色んな知識や理論も大切だけれど、そんなのだけで頭をいっぱいにしていても、それでは実態にはならない。ミニチュアワークの真髄は“実態”であり、自分の手や体や感覚を使って実際にやってこそ実態となる。そこに新しい道がある。そういう風に私には響きました。

頭でっかちになってないでまずはやってみようよ、と…。

  最後に、講座終了後に主催のマーブリング・ファインアーツ、マネージャーの岩崎さんと少しお話することができました。

こういうワークショップはプロの人向けにはこれまでもやったことがあるけれど、広く一般に人にもミニチュアワークでこんなことができる、こんなこともやっていると知ってほしくて開催した、とそんな風におっしゃっていました。

本当に、これまでありそうでなかなかなかった貴重な機会だと思います。

ただ観ているだけでも心沸き立つ“特撮”ですが、そこに秘されている技術の粋、注がれている熱い情熱、受け継がれてきたエネルギーとその先へと向かうエネルギー、そのほんのわずかな一端ですが(現場の凄さは推して知るべしでしょう)、今回、体感する機会を得て、私はますますミニチュア特撮の内包する魅力の深さにシビレました。

願わくば、今後もどこかでこのようなワークショップを開催して頂けたらと思います。

 今回の『ミニチュア特撮課外講座』を主催してくださったマーブリング・ファインアーツさんと、特撮博物館開催にかかわられた全ての方々に深く感謝いたします。

 「特撮映画の雑記帳」 番外編 映画『ハワイ・マレー沖海戦』あれこれ         執筆 鈴木聡司

   ・前口上

『ハワイ・マレー沖海戦』は、日本映画史上初めて特殊撮影がクライマックスシーンで本格的に使われた記念碑的作品とされています。今年はその公開七十周年に当たることから、春先より半年ばかり掛けて自分なりに資料を洗い直してみたところ、既に語り尽くされた観のある本作品にも、余り知られていない色々な新事実があることを発見出来ました。そこで今回は、その幾つかを誌面が許す限りご紹介したいと思います。

    ・もう一つのゴジラ誕生秘話

 円谷英二監督が『ハワイ・マレー沖海戦』を手掛ける六年前に関ったのが、初の日独合作映画として知られる『新しき土』(監督 伊丹万作、アーノルド・ファンク)でした。この作品において撮影協力を務めた円谷さんは初めてスクリーン・プロセスと呼ばれる画面合成技法の本格的導入を果たすのですが、ここで忘れてならないのは、後の作品の萌芽とも呼べるミニチュアワークも又、僅かなカット数ながら本作品中で用いられていることです。

 それは後年の『日本沈没』冒頭の衛星高度から見た日本列島の俯瞰図を三十数年先取りしたような特撮カットであったり、噴煙を上げる浅間山や、地震で倒壊する家屋等を描いたものでした。いずれも至って初歩的なレベルのミニチュア特撮なのですが、しかし、イザこれを撮影する段になって問題になったのは、当時はそうしたミニチュアを作製する技術を持った人間がスタッフの中に一人も居なかったことなのだそうです。

何しろ『新しき土』が撮影された昭和十一年と言えば、まだ東宝特殊技術課など存在すらしていない時代のことですから、ミニチュア一つを作るにしても、特美スタッフに当たる人間を何処からか探してこなければならなかったのです。結局、これに困り果てた円谷さんが泣きついたのが、本作品の美術監督を務めていた吉田謙吉なる人物でした。

この吉田氏、当時は舞台美術の売れっ子で、円谷さんが同じJOスタジオで撮影を手掛けた『百万人の合唱』のときに組んで以来の顔馴染だったようです。

 『新しき土』のスタジオ撮影は京都で行われていましたから、必要な人材は当然、関西在住の人間から手配せねばなりません。そして、このとき吉田氏が本邦初(?)の特美スタッフとして白羽の矢を立てたのが、当時たまたま大阪に暮らしていた「浅野孟府」なる人物でした。

浅野氏と吉田氏とは若い時分に同じ前衛芸術運動に参加していた旧知の間柄だったとかで、しかも浅野氏は本業が彫刻家でありながら建築学を修めていたため建物の図面が引けたことから、これまでもプロレタリア演劇の美術セットなどを手掛けた経験もあったとされます。

 で、結論から言いますと、吉田氏の眼鏡に狂いは無く、円谷さんの期待に応えて浅野氏は見事に務めを果たし、『新しき土』は完成を迎えます。そして、その仕事振りが余ほど印象に残っていたらしく、後に円谷さんが『ハワイ・マレー沖海戦』の特殊技術を担当するに際して想い起こしたのが、浅野孟府の存在だったとされます。

 すなわち、ハワイ・真珠湾軍港に殺到する日本海軍機の編隊が縫うようにして飛び越えるオアフ島脊梁山脈の山肌の造形は、
孟府先生じゃないとダメだ!」
 とばかりダダを捏ねて、戦時下であるにも拘らず、大阪在住だった浅野氏をワザワザ東京の砧撮影所まで招聘しているのです。

 当時、既に二児の父だった浅野氏は、自分のアトリエに彫刻を習いに来ていた唯一人のお弟子さんだけを伴い、単身赴任でもする格好で『ハワイ・マレー沖海戦』の撮影に参加することとなりました。浅野氏の他にも、このとき掻き集められたスタッフには、戦後に鳥をモチーフにした彫刻で知られることになる山本常一氏を始め、戦争のため閑職となった芸術家が多く参加しておりました。

なお、本作品での浅野氏の仕事振りについては、

「彫刻家浅野孟府君の天稟が臨時召集され、直ちに同君による山肌などの工作法の新発見となり、これまた尊い効果を挙げ得ていることを特記したい」

と当時の映画雑誌『日本映画』に記載される程の高い評価を受けております。

 かくして苦闘数ヶ月、ついに映画は完成し、役目を終えた浅野氏は家族のもとへと帰ることになるのですが、このとき一緒に連れてきていたお弟子さんについては、

「自分とは違ってコイツは未だ若くて身軽だから、大阪に連れ戻るよりは、東京に残って時たま映画の仕事でも貰えれば、喰うにも困らないし本人の勉強にもなるだろうから、どうぞ宜しくお願いします」

 とばかりに後事を円谷さんに託して行きました。

そして、このお弟子さんと言うのが誰あろう、かの「利光貞三さん」だったのです。云わずと知れた、初代ゴジラの造形を手掛ける人物です。

 この話は浅野孟府氏の次男坊で、戦後長く新聞記者をされていた浅野潜氏の証言に拠るもので、これまで特撮関連書籍等では「円谷さんの京都時代の知人」といった程度の漠然とした語られ方しかされてこなかった利光貞三氏と円谷英二監督の関係が初めて明確にされた、注目すべき事実だと思われます。

また、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の言い方をするならば、吉田謙吉氏を通じての円谷・浅野両氏の偶然とも呼ぶべき幸運な邂逅が無かったら、今日我々が眼にするゴジラは今少し異なった姿形をしてこの世に生まれ落ちていたかも知れない訳で、人と人の出会いの重要性が改めて思い起こされるエピソードでもあります。

   ・ミニチュア真珠湾の真相

この作品の目玉と言えば、何といっても東宝第二撮影所の敷地いっぱいを使って再現された真珠湾軍港の大ミニチュアセットでしょう。敷地面積千八百坪、海面に当たる池の面積が五百坪という数字が残っていますが、では果たして実際の縮尺率はどの程度だったのでしょうか?

当時の宣伝参考資料には「実物の約四百分の一」と書かれていますが、これは面積比で四百分の一という意味だと受け取れます。しかし面積で四百分の一と言うのなら、通常の模型製作における縮尺率は二十分の一ということになってしまいます。すると、開戦時にパールハーバーの戦艦横丁に錨を降ろしていた米戦艦の全長は大体百九十m前後ですから、この縮尺率では一隻あたりの長さは九m五十cm、これが五隻縦並びに浮かぶだけで五十m、軍港の中心部に位置するフォード島に至っては長径凡そ二㎞としてミニチュアでも約百mに達してしまい、これではとても前述した五百坪のオープンプール内には収まりきれないこととなります。

ここで再び前掲の宣伝資料を見てみますと、基準となるミニチュア戦艦の長さが九尺五寸(二m九十cm弱)とされていますから、これだと縮尺率は六十六分の一となります。

何とも中途半端な数値の様ですが、後年『太平洋の嵐』が作られた際にも当初は五十分の一の縮尺でミニチュア真珠湾を作る予定だったところ、新設の特撮大プールをもってしてもサイズ的に収まり切れず、やはり六十六分の一に変更されたと聞きますから、これは至って妥当な数値だと考えられます。また六十六分の一を面積比に換算すれば「四千分の一」に近似した数値となり、宣伝資料等に見られる「実物の約四百分の一」というのは何かの理由で零が一つ抜け落ちたまま伝わったものなのかも知れません。

なお、こうしたミニチュア戦艦の縮尺率は、五寸玉と呼ばれる火薬の爆発で発生する水柱が嘘っぽくみえないサイズから逆算されたものとされますが、実際のミニチュア製作に当たっては、喫水部分のみ比例寸法より八㎝ほど深く作られています。これは魚雷爆発のショックによる転覆を防止するためのものでした。

また、プールの底部は素掘りのままだったため、撮影時には五寸玉の爆発で沈殿していた泥土が跳ね上って、予想外の迫力が生まれたとされます。これは後年のコンクリで床を固めた大プールでは出せない、計算外の効果だった様です。

なお、魚雷爆発に用いた電気式発火装置は後年見られる「三味線」と呼ばれるものではなく、高く組んだヤグラ上からピアノ線付きの錘を投げ降ろすと、そのピアノ線に曳かれてプール底部の雷跡を発生させる仕掛けが動き、それが敵戦艦の舷側に達した時点で(つまり魚雷が敵艦のドテッ腹に吸い込まれたタイミングで)、ピアノ線が伸び切って接地すると同時に発火装置に通電して爆発するという、ピタゴラ・スイッチ顔負けのものでした。

さて、この大オープンセットが組まれたのは、砧撮影所から見て小高い丘の上にあったことから、「ウエの撮影所」と通称されていた東宝第二撮影所(航空資料製作所)の敷地内でした。通常の撮影所から隔離された場所が使われたのは、この第二撮影所が軍機に属するような軍事教材映画を主に作っていたからで、このため一般人の入場見学は許されておりませんでした。

しかし、これだけの見事なセットを広く国民の目に触れぬままで終らせるのは勿体無いとでもいった考えが働いたらしく、場所を変えてこのミニチュア真珠湾は一般公開されることになります。つまり東京・水道橋の後楽園球場のグラウンドいっぱいを使って、艨艟の群れの停泊する軍港の大セットが移設され、撮影時の姿そのままに再現されたのです。

この二年前の『海軍爆撃隊』公開時にも東京市内の百貨店で宣伝を兼ねたミニチュア展示が催されていますが、今回は規模もケタ違いで、変身ヒーローたちと握手が出来るようになる遥か昔から、後楽園界隈は特撮ものと深い縁で結ばれていたことになるのでしょう。

大東亜戦争一周年記念・映画報国米英撃滅大展覧会と銘打たれたこの一般公開は作品封切直後の昭和十七年十二月五日から十日間にわたって開催され、入場者は連日一万人から二万人に達し、大変好況を博したとされます。今夏、話題を集めた東京都現代美術館における特撮博物館のルーツも、案外こんなところにあるのかも知れません。

   ・山本嘉次郎監督の憂鬱

 一方の本編側の美術セットで目を惹くのは、何と云っても実寸大に再現された航空母艦のオープンセットでしょう。飛行甲板の長さが二百mとされるこのセット造るに際しては、軍事機密による掣肘が厳しく、大変な苦労を味わったと聞きます。

 撮影監督を務めた三村明氏の証言によりますと、企画当初は航空母艦でのロケーションを許可する約束だった海軍側の態度が急に変わったため、自前で大セットを造るハメになったとかで、後から思いなおしてみると、

「どうやらミッドウェイ海戦の影響をモロに受けた形だったのではないか」

と云うことです。

しかし、もし昭和十七年六月のミッドウェイの大敗戦が無かったとしても、日本の空母部隊には引き続いて翌月からはフィジー、サモア、ニューカレドニア各島の攻略、そして十月を目途にハワイ攻略に参加するという、神風タレント(by高島忠夫)並みの過密スケジュールが組まれていましたから、いずれにせよ母艦ロケの実現は極めて困難だったのではないかと想像されます。

 まあ、それは兎も角として山本嘉次郎監督によりますと、実寸大セットの作製に際して海軍側は実物の見学はおろか資料写真さえ提供してくれず、已む無くアメリカ雑誌『ライフ』に掲載されていた米空母のグラビア写真を参考にしたため、作品完成後の試写の際に大本営海軍部の参謀だった高松宮様から、

「なんだこれは! まるで『サラトガ』(米空母の名称)じゃないか!」

 との厳しい叱責を受けたとされます。

 しかし、現存する航空母艦セットデザイン画(美術担当の松山崇氏の筆による。岩波書店・廣澤榮著『日本映画の時代』五十五ページ掲載)や完成した作品で見る限り、実際の日本空母のアイランドに極めて類似したセットが組まれており、いったい本編セットの何処を見て『サラトガ』なる艦名が出てきたのか甚だ疑問を感じてしまいます。

寧ろ、特撮側に登場する日本空母のミニチュアこそ何とも奇妙で無国籍な艦容を有していますから、本編セットが誹謗されたとする山本監督の発言も、或るいは円谷さんに対する配慮を含んだものだったのかも知れません(全くの余談ながら、小松崎茂先生によりますと、この『サラトガ』なる艦名は戦前では「素晴らしく大きいもの」の代名詞に使われていたとのことです。例えば「まるでサラトガみたいなトンカツ」といった具合に……以下、閑話休題)。

 実際には、このころ三村氏の義弟が海軍航空隊の副長をつとめる要職にあり、三村氏と山本監督がその任地であった長崎まで出向いて母艦セットの作図の指示を仰いだとする証言(昌文社・工藤美代子著『聖林からヒロシマへ』)もあることから、関係者による情報リークもあったのではないかと想像されます。ちなみに『ハワイ・マレー沖海戦』より数ヶ月遅れて製作に入った、やはりハワイ空襲を題材とするアニメーション作品『桃太郎の海鷲』では、何故か海軍側は軍艦や飛行機の資料写真の提供は勿論、真珠湾攻撃に参加した空母の艦名までアッサリ教えてくれた(瀬尾光世氏の証言)とのことでした。

 さて、ようやく図面も整い、いよいよ日本映画史上初の航空母艦実寸大セットの製作が始まります。撮影時には海軍から本物の飛行機を借り受けて飛行甲板上で運用するため、セットの設置場所としては航空基地に隣接した場所であることが絶対条件となりました。

そこで当初は予科練で知られる茨城県の霞ヶ浦航空隊の敷地内に建設許可を得て、資材搬入も終わり、大道具ら数十人のスタッフが現場入りしたのですが、直後に事態は一転します。現場からもたらされた急報は、

「指示通りの場所にセットを建てると、背景に筑波山がモロに写り込んでしまうぞ!」

 と云うものでした。

 実はこれ、山本監督、三村カメラマンらにより入念なロケハンが実施されていた筈なのですが、その時は偶々雲が懸かっていたため筑波山の存在に気付かなかったという、まるで冗談みたいなアクシデントの結果でした。

 
本作品は開戦一周年記念作品として公開時期も海軍側と厳しい取り決めが交わされていて、些かの遅延も許されません。直ちに次の設置候補地を探し出さねばならず、撮影スケジュールは大混乱に陥ったとされます。そして、作品進行上の責任を有する助監督らが結束して、監督を跳び越えて会社上層部に「スケジュール的にとても間に合わない」旨を直訴したという、山本監督の表現するところの「クーデター」が勃発したのも、この時のことでした。

 山本嘉次郎監督は『カツドウヤ水路』等の名随筆でも知られていて、この映画の苦労話もその中で詳細に語られているのですが、何故かこの筑波山騒動に関しては一言隻句も触れてはおりません。普段ならば、こうした撮影現場での失敗談などでさえ軽妙洒脱な筆使いで見事な笑い噺に仕上げてしまう筈のヤマカジ氏が全くの沈黙を保っているのですから、信頼していた助監督らによるクーデター騒ぎの原因となったこの不手際には、かなり精神的に参らされたということなのでしょうか?

 その後、母艦セットの新たな設置場所は千葉県の館山海軍航空隊の敷地内に決まり、撮影は何とか軌道に戻ることが出来ました。ただマスコミがこれを「地上に出来た空母」として大々的に宣伝してしまったため、

「折角、海に浮かんでいるように苦心惨憺して撮影したのに、これではイメージダウンも甚だしい!」

 と撮影監督以下、東宝宣伝部の方針には大変不満だったとされます。

 さて、そんな館山ロケの真っ最中のことでした。

或る朝、宿泊先の旅館からスタッフ、キャストらが撮影に出発しようとしていたとき、主役の少年飛行兵を演じる伊東薫氏が、高峰三枝子の流行歌『湖畔の宿』のメロディーを小さく控えめにハミングし始めたのです。

当時この歌曲は内容が柔弱過ぎて戦時下にはそぐわないとして、公共の場での歌唱が禁じられていたものでした。万一にも憲兵や警官の耳に入りでもしたら大変なことになるところなのですが、反骨精神逞しいとでも言うべきなのか、それがその場にいた人にも伝染して、何人かがこの小さなハミングに加わりました。すると、ちょうど玄関に出てきた山本監督がそれを耳にして、ハミングどころか何と『湖畔の宿』の歌詞そのものを声高らかに唄い始めたのです。

 このため監督が唄うのならば問題ないだろうと、玄関先に居た全員が時ならぬ大合唱を始めてしまったのでした。そこで真っ青になったロケマネージャーが、

「監督! その歌は唄っちゃダメです!」

 と大慌てで諌めると、当のヤマカジさん、まるで悪戯を見つかった悪童のような「ヘッ!」という笑いを残して玄関を出て行ったとされます(以上、現場に居られた松尾文人氏による証言)。

 ロケハンの手違いによるスケジュールの遅延や一部スタッフによる造叛劇、それに私生活の面では奥様が病で倒れられたのもちょうどこの頃のことでしたから、いや増しに募っていた憂鬱の捌け口として、山本監督がスタッフ・キャストを巻き込んだ「禁制歌謡の大合唱」という憂さ晴らしに及んだのではないかと見るのも、決して穿ち過ぎではないようです。
                                                       終

  新刊本コーナー 


『特撮仕事人 仮面ライダー、スーパー戦隊シリーズの特撮監督が明かす撮影の裏側 特撮監督佛田洋の世界』
 (マーブルブックス刊 佛田洋著 1800円税別)

 タイトル通り戦隊シリーズ、仮面ライダーシリーズをはじめとする東映作品を中心に、特撮監督として幅広く活躍されている佛田洋氏のロングインタビュー本です。

佛田氏は、'90年『地球戦隊ファイブマン』で特撮監督デビューされました。国内のメジャー作品を新人の特撮監督が撮るのは久しくありませんでした。この時までは当時40代の川北監督が「若手」と言われていましたから、20代後半の特撮監督の登場にはそれまで停滞気味だった特撮界に新しい動きが出てきたなと感じました。

興味深かったのは、大学卒業と前後して平山亨プロデューサー、矢島信男監督と何とか接点を作り、三池敏夫氏と共に上京して特撮研究所に入ってゆくというくだりでした。私も含め、特撮ファンは、特撮の仕事に就きたいという憧れを持っていると思います。特撮作品の本数が少ない時期にこの人たちはこうやって夢を実現させたのかと感じました。佛田さんは、「運が良かった」と述べておられます、しかしここまで来る事が出来たのは、それだけ優秀だったのだと思います。学生時代に影響を受けたいくつかの出版物が掲載されており、その中でも『宇宙船』第0号とも言うべき『すばらしき特撮映像の世界』は当時の特撮ファンにかなり影響を与えていたようですね。

子ども~学生時代は自主映画ではなく模型作りが好きだったそうで、ミニチュア撮影は「楽しい」としながら「CGを否定するのは愚の骨頂」とCGの重要性も認識する姿勢に説得力を感じるのはプロとして長年切れ目なく東映作品を撮り続けてきた実績があっての事でしょう。砕けた語り口の中に職人ぶりを感じさせるすばらしい内容の一冊です。

『ウルトラセブン研究読本』(洋泉社刊 2100円税込)

 もはや語り尽くされた感のあった『ウルトラセブン』でしたが、これだけの本が出るとは驚きました。圧巻は関係者へのインタビューで、メインスタッフはもとより助手だったスタッフや1回のみのゲスト出演者に至るまで、可能な限りの証言を採っているのにはただただ圧倒されます。スタッフ、キャストは亡くなられた方も多い事を考えると(特殊技術を担当された方は既に4人とも亡くなられています)さらに貴重だと感じます。

これは、10代で着ぐるみに入っていた山村哲夫氏のお力が大きかったようです。特に、満田監督と並んでの14本という『セブン』最多の本数を撮りながら、俳優出身という以外に詳しいプロフィールが不明で注目される機会がなかった鈴木俊継監督の人となりについて、少ないながらも語られているのが印象に残りました。

関係者インタビューだけでなく、'70年代末に刊行され、『セブン』再評価のきっかけとなった『ファンコレ』フィルムストーリーブックのメイキングや、東映系で劇場公開された理由について推察するなど、これまで他では取り上げなかった事柄まで掘り下げているのには思わず口元が緩んでしまいました(ミスプリが多いのが玉に傷ですが)。同時期の特撮界、テレビ、映画界の状況を研究する上でも貴重な資料になると思います。

『ファンコレ』を卑下する気はありませんが、ドラマ面で『セブン』が特に持ち上げられている傾向には、第二期や平成のウルトラ作品にもそれぞれ愛着がある筆者は些か疑問がありました。しかし作り手としてはあくまで特撮ヒーローものの決定版を作ろうとしていたのであって、「盗まれたウルトラアイ」や「第四惑星の悪夢」は様々な悪条件からくる制約を面白がれるスタッフがいたから出来た、言わば怪我の功名だったと改めて実感しました。

●『女優 水野久美 怪獣・アクション・メロドラマの妖星』(洋泉社刊 水野久美 樋口尚文著 2800円税別)

 '60年代東宝特撮映画を代表する女優の一人である水野久美さんの女優人生を樋口尚文氏のインタビューで綴った本書は、著者である樋口尚文氏の思い入れが感じられる一冊。女優業だけでなく私生活における生々しいお話も綴られているのですが、こうした事も芸の肥やしにしようという姿勢には根っからの女優さんなんだなぁと感じました(一昨年の土曜ワイド劇場で、秋の撮影で入水シーンを演じられていたのには驚きました)。特撮映画への出演は本数的には意外に少ないのですが、すぐに名前が浮かんで来るのはそれだけ存在感があったという事でしょう。

8月に、出版を記念して銀座シネパトスにて『怪獣大戦争』と成瀬巳喜男監督の『妻として女として』上映+トークショーが行われました。異例の二本立てでしたがとても和やかな雰囲気のイベントでした。

特撮ではありませんが、内藤洋子さん、酒井和歌子さん出演作を中心に、昭和40年代の東宝青春映画を扱った『東宝青春映画のきらめき』(キネマ旬報社刊 2400円税別)が発売されました。良質な作品がありながら、一般的には振り返られる事がなく、DVDになっていない作品が多い東宝青春映画ですが、この機会に注目されればと思います。 

これはまだ買っていないのですが、デアゴスティーニから東宝特撮映画の全集本が出ましたね。かなり大判サイズで、目を通したところ珍しい写真や、文章面でも初耳の話が載っており、いつかは買わねばと思っています。'78年のSFブーム時、『惑星大戦争』の後さらに宇宙もののテレビシリーズの企画が東宝映像でもあったとは存じませんでした。もしかして『メガロマン』はこの企画が変転したものだったのかと邪推してしまいます。

  おわりに


 
2012年の「G会報」はこれが最後になると思いますので、ちょっと早いごあいさつになりますが、みなさんにとって、来年がさらによいお年になることを願って締めとしたいと存じます。

それでは皆さん、よいお年をお迎えください。  ありがとうございました。