特撮映画の雑記帳 第二回
 名画座あれこれ
                                                鈴木聡司

ここ最近、浅草通いが続いております。

 前回も書きましたが、私の暮らす東京近郊の名画座は今や壊滅に瀕しており、日本映画黄金期の作品をスクリーンで眼に出来る数少ないコヤ(劇場)の残る場所が「浅草」というワケだからなのです。
 無論、池袋や阿佐ヶ谷にも映画ファン向けの名画座が存在していますが、個人的にはどうもアチラは敷居が高い感じを受けてしまいます。何よりも新文芸座(池袋)やラピュタ(阿佐ヶ谷)は特集上映がメインなので、場末のコヤ特有のゴッタ煮感(と云うより、何も考えていない上映作品の組み合わせ)が好みな私の場合、三本立ての番組中に一本でも特撮作品が含まれれば、どうしても六区に足が向いてしまうことになります。酔狂な話ですが、LDやDVDソフトを所持している作品でも、それが銀幕に掛かるとなると劇場まで脚を運ばずにはいられない、真に困った病気だと本人も自覚しておる次第なのです。
 随分昔の話になりますが、和辻哲郎・著『古都巡礼』なる書籍が出版されたことがありました。これは奈良・京都などの古刹に置かれた仏像の美について該博な知識で語った優れた評論集だったのですが、意外にも出版後間もなく一部から非常な批判に晒されました。
 と云いますのは、同書の中で著者が飽くまで仏像を掛け軸や焼き物の様な一つの美術品としてしか見ていなかった点が問題とされたからです。つまり仏像と信仰とは不可分のものであり、仏堂の中で礼拝されるときにこそ初めて本来の美が見出されるのであるから、仏像美術を語るなら、それが安置されている寺院をも同時に語らねばならないとするのが批判者側の論旨でした。
 この伝でいけば、劇場(コヤ)と作品(シャシン)も又、常に不可分な関係にあるのですから、やはり映画を語る場合にも、それが上映される映画館を常に視野に入れておかねばならないことにならないでしょうか? 左記の論旨に影響された訳ではないのですが、私には映画を自宅の居間で鑑賞することは、それこそ無味乾燥な美術館のガラスケースに陳列された仏像を眺めるのと同じに思えてならないのです。もっとも、仏様と映画をいっしょくたにしては、そのうち仏罰が当たってハヌマーンに踏み潰されてしまうかもしれませんけれど。
 さて、私の通う浅草のコヤなのですが、御存知の通りああした土地柄なこともあって、映画を鑑賞するにはお世辞にも良い環境とは呼べず、万人にお勧めできる映画館では決してありません。しかし、ソレはソレで自宅のホームシアター(前述の通り、私はこの言葉が大嫌いですが)で見るのとはちょっと変わった楽しみ方を実は見つけてしまいました。
 それは特撮ファンでも何でも無い、「一般客の反応を観察する」ことなのです。
 つい先日、『海底軍艦』を浅草まで見に行ったときのことでした。劇中、平田明彦紛するムー帝国工作隊二十三号が上原謙たちを海岸で誘拐しようとする場面で、あろうことか客席から、

「何でぇ、北××と同じようなコトしてやがる」
とのヤジが飛び出し、場内は爆笑の渦に見舞われました。しかし正直なハナシ、このヤジに私は虚を突かれた思いを感じたのです。と云うのは、これまで『海底軍艦』は何十回目にしたか解らない程の作品ですが、自分がそうした不遜な感想を抱いたことなど一度たりとも無かったからです。工作員、潜行艇、民間人拉致、と続けば昨今話題の某国を連想するのは当然の流れであって、それを自分でも気付かぬ内に精神的掣肘を掛けていたのは、やはり頑迷な特撮ファンにありがちの、作品に対する動脈硬化的な固定観念の成せるワザといったトコロなのでしょうか?
 結局この日はヤジのお陰で眼からウロコでも落ちたような気分になり、映画の中盤で繰り広げられるムー国人たちの民族色豊かな大舞踊の場面が、何処ぞの国の偉大な指導者の前で行われるマスゲームに見えて仕方無かったことを告白しておきます。
 さて、よくよく考えてみれば、これまで自分たちが足繁く通っていた文芸地下や大井武蔵野館の特撮映画特集やオールナイト上映などは、その客の大半は自分と同類の好事家であり、注目する場面やリアクションはどうしても似通っていたことになるのではないでしょうか。ですから一般客の反応やヤジと云うのは、「アバタもエクボ式」の固定概念に凝り固まった自分たちが忘れていた、作品に対する生地の感想の現われに思えてならないのです。
 私が一般客と特撮ファンの、そうした作品に対する反応のギャップに気付いたのは、七、八年前に京橋のフィルムセンターで『空の大怪獣ラドン』が上映されたときのことでした。このときの客層は普段からフィルムセンターに通っているといった具合の一般の映画ファンが中心で、一目でソレと解る御同類の方々は殆ど居なかったと思います。そのため、少しばかり居心地の悪さを覚えつつ作品に見入っていた私は、思いも寄らぬ客の反応に驚かされることになりました。
 それは映画の前半、白川由美と佐原健二が炭鉱長屋で語り合っているところにメガヌロンが突如として闖入してくる場面で、場内に大爆笑が沸き起こったからです。恐らく特撮モノを見慣れていない客たちは、数人掛かりで動かしているメガヌロンの縫いぐるみの余りのバカバカしさに仰天し、噴き出してしまった様でしたが、云うまでもなく、そんなことは私の知っているオールナイト上映等では決して有り得ない反応でした。このため特撮ファンである私は、何だか自分の実家が低く見られたみたいな釈然としない思いに捉われたのですが、同時に「世間一般の反応とは、こうしたものなのか」との感慨を覚えたのも確かでした。
 このため、そうした世間一般の生のリアクションが確かめたくなり、やはりフィルムセンターで『美女と液体人間』や『日本海大海戦』『太平洋の鷲』等が上映される度に足を向ける様になりました。中でも『太平洋の鷲』では上映終了直後、隣席にいた従軍経験者と思しき高齢者の団体から感極まった状態で話し掛けられてしまい、些か閉口したこともあります。
 また忘れられないのが、数年前に横浜の名画座で深作欣二監督の特集上映が組まれたときの出来事でした。
 その特集上映は『仁義なき戦い』正編五部作が一作品づつ週替わりのメイン番組を構成し、併映としてこれに三日か四日交代で他の深作作品が付いた変則的な二本立て興行でした。この添え物のサブプログラムが特撮ファンにはナカナカ貴重で、久々にスクリーンで見る『宇宙からのメッセージ』を筆頭に、『魔界転生』や『里見八犬伝』、更には『風来坊探偵』シリーズ二部作(短いがリアルなミニチュア特撮が見られます!)と実に盛り沢山な内容でした。御多分に漏れず私も殆どの番組に通いましたが、意外と同好の士と顔を逢わせることはありませんでした。昔と違って映像ソフトが行き渡っていることもあり、ワザワザ劇場まで足を運ぶファンは少ないと見えて、寂しい限りでした。
 元々そのコヤの客層は、仕事サボりのサラリーマンや近所のお年寄りが暇潰しに通ってくるのが中心の様なのです。そして、そうした雰囲気の中で『宇宙からのメッセージ』の上映が行われたとき、ソレは起こりました。
 恐らく、このとき劇場に居たお客の大半は飽くまでメイン番組の『仁義~』が目当てであって、併映の『宇宙からのメッセージ』という作品に関する予備知識など全く持ち併せていない状態で客席に着いていたのではないかと思われます。事実、東映の三角マークに掛かる仰々しいまでの音楽とともにメインタイトルが始まり、次いで、
「惑星ジルーシアは死に掛けていた­­­­­­­」
 との芥川隆行による名調子のナレーションが流れるのを受けて、場内に言葉にならぬざわめきの様なものが広がっていくのがありありとわかりました。明らかに客たちの多くは戸惑いを見せている様子なのです。
 要するに実録任侠路線を見に来て、一緒にこんなワケの解らぬSF活劇を見せられるコトになるなんて思ってもみなかったのでしょう。それでも不思議と退出する客は少なく(皆さん、毒を喰らわばとかいった気分だったのかも知れませんが……)、特撮ファンとはまたちょっと違った部分に突っ込みの失笑を漏らしつつも作品を楽しんでいたようでした。そして、中でも傑作だったのが、私のすぐ横にいた初老の男性の反応でした。
 作品の中盤でガバナス人たちが老婆カメササの記憶から地球の映像を読み取る場面があります。ここでロクセイア十二世の顔がアップ気味になるのですが、その瞬間、件の男性が突然驚いた様に呟いたのです。
「あっ。コイツ、若頭だ!」
 そう、その男性は『仁義なき戦い』シリーズを通して圧倒的な存在感で「山守組若頭・松永」役を演じた天下の大俳優・成田三樹夫が、こんな子供騙しの映画(心情的にはイヤな表現ですが、世間一般の扱いはこうなるのでしょう)に顔を銀色に塗りたくった悪い宇宙人に扮して出演しているなど想像の外にあったのでしょう。それじゃ千葉真一の立場はどうなるんだ?と逆に突っ込んでやりたい面もありましたが、兎も角、そのお客の心底驚いた、悲鳴に近い驚愕の声は今でも忘れることが出来ません。
 他にも劇場で見聞きしたこうしたユーモラスな逸話は枚挙が無い程なのですが、一方で作品内容に対する場末のコヤ特有のアレルギー反応とでも呼ぶべきものが存在していることに最近気付かされました。それは映画の中で語られるイデオロギー的な表現に対する激しい拒絶反応です。
 これも左記の『海底軍艦』のときのことなのですが、劇中、神宮司大佐(余談ながら、海軍では大佐は正しくはダイサと呼ぶそうです)が「神宮司は悠久の大義に生きる信念です」とか「海底軍艦でまた(世界を)変えます!」などといったファナティックかつ時代錯誤的な台詞を口にする場面で、これに激しく食いついた客がいたのです。
 何しろ上映中でも喧嘩騒ぎの絶えないコヤなものですから、客席から、
「何バカなこと言ってんだ、このヤロー!」
 との罵声が上がったとき、最初てっきり私は客同士がモメているのかと思いました。ところが、よくよく聞いていると、そのお客は明らかに神宮司大佐の言動に対して怒りを現していたのです。もうこれは、メガヌロンの登場で客が爆笑したのとは次元の掛け離れた反応と云う他ありません。
 やはり同様のこととして、この正月に『亡国のイージス』を浅草にもう一軒ある別のコヤで見たとき、劇中「亡国の盾」なる憂国思想タップリの論文が朗読される下りで、激しい拒絶の声を上げたお客のいたことが思い出されました。
 更に云えば、これは仄聞したことなのですが、以前大阪の或る劇場で黒澤明監督の『夢』が上映されたときのこと。戦死した兵隊たちの幽霊が登場するエピソードで、その死んだ兵隊たちが元上官役の寺尾聡に、
「どうして自分たちは戦争が終わったのに家族の所に帰れないのですか?」
 などと口々に訴える場面で客席から、
「そりゃあ××が悪いんだ!」
 と、言論の自由を保障されている筈のG会報でも怖くて伏字でしか書けないような「不敬罪的」な罵声が飛び交い、一時、場内は騒然となったと云います。(元来、大阪の人たちには、言論統制の厳しかった戦時中でさえも職業軍人の姿を見かけると、「こんなしょーもない戦争、始めよってからに」などと聞こえよがしに云ってのけて平然としていた気風があったとされていますが……)
「あの時代」を通過してきた世代、中でも前掲した「悠久の大義」などの言葉に代表されるファナティックなイデオロギーに押さえつけられ、戦争の辛酸を舐めてきた人々には、仮令絵空事の映画であっても我慢ならない部分があるということなのでしょう。独自の気風を有する大阪や、或いは東京でも特殊な地域に感じられる浅草六区の映画館に集う人々がスクリーンに向けて放った言葉は、まさに掛け値のない、作品に対する生地の反応だったのです。
 しかし、だからと言って戦争ものの映画が浅草界隈で不人気な訳では決してありません。現在六区に二軒営業している邦画専門の名画座で今年になって上映されたこの手の作品は、私が憶えている限りでも、『ゼロファイター大空戦』『独立愚連隊西へ』『ああ陸軍隼戦闘隊』『潜水艦イー五七降伏せず』『独立機関銃隊未だ射撃中』『零戦黒雲一家』『男たちの大和』等々、玉石混交で実に枚挙がない有様なのです。果たしてこの現象をどう読み解けば良いのでしょうか? 
 これらの劇場の客層はいずれも中高年の男性客が殆どで、間違いなく従軍経験のありそうな、かなりの高齢者も少なくありません。
 驚いたことに、そうしたお客たちの多くは、例えば『男たちの大和』を上映したときなど、あの見え透いたお涙頂戴的な場面でさえオイオイと声を絞って泣きじゃくるのです。或いは映画の一場面に自分たちの過去を重ね併せているとでもいうのでしょうか?ともかく恐ろしく素直で朴訥な感情表現なのです。
 つまり、そうしたお客の多くは、「お国」という嘗て自分たちの上に重く圧し掛かっていた大きな存在に対する強い反感や嫌悪を残しつつも、一方で過ぎ去った時代への愛惜や郷愁といった感情をシッカリと抱き続けている­­­­­­­そう理解する他に六区界隈で盛んに戦争ものの映画が懸けられて、お客を集めている理由が見つけられません。
 故・田中純一郎先生の書かれた『日本映画発達史』なる著作があります。私が最初にこれを手にしたのは確か中学生の頃で、まだ『大特撮』さえ刊行されていなかった当時としては、特撮作品を含む日本映画の流れを曲がりなりにも俯瞰することの出来る数少ない通史的な資料でした。
 この本で忘れられないのが、昭和二十八年に公開され大ヒットした東映作品『ひめゆりの塔』(今井正監督作品)に関する記述でした。制作費四千五百万円に対して配収一億八千万円余り、即ち原価回収率四百パーセントという空前の大ヒットの理由を、こともあろうに著者は、
「戦時下生活へのノスタルジーにある」
 と断定していたのです。
 これを読んだ当初、私には著者の言葉が理解出来ないでいました。云うまでもなく私は戦時中は勿論、この映画が公開された当時の世相も知りません。しかし、話にだけは聞いたことのある空襲やら疎開やら深刻な生活物資の困窮やらに苦しまねばならなかった国民に、そうした過去への郷愁めいた感情が存在するなど想像も出来なかったからです。
 しかし、ずっと後になって次ぎの様な逸話を耳にしたことから、多少なりとも『日本映画発達史』に書かれた言葉を理解するようになりました。
 それは、戦後一年経ち二年経つうち、焼け跡に立ち並ぶ闇市の飲み屋などで見知らぬ者同士が顔を合わせると決まって、
「戦時中、俺はどこどこの連隊に居て、戦地はどこどこだった」
 などと軍隊時代の思い出話を、それがどんな悲惨なものでも、どこか懐かしげに語り合うようになったとするものです。これなどは人間独特の機微と呼ぶべきもので、前線銃後を問わず「あの時代」を通過してきた者に共通の、そして私のような戦無派世代には伺い知ることの出来ぬ特殊な感情だと思われます。そしてそれはそのまま、時間の止まってしまった様な街・浅草六区のお客たちにもあてはまるものなのではないでしょうか?
 まことに一面的な観察なのかも知れませんが、今では私の中でそうした疑問は半ば確信に変わりつつあります。そうした訳で私の浅草通いはまだま
だ終りそうにないのです。

                                                                              (本稿終わり)