映画『海軍爆撃隊』実見記                           鈴木聡司 

  去る十月二十五日(2006年10月25日)、人身事故による東海道新幹線ダイヤ大混乱の最中、無謀にも京都まで『海軍爆撃隊』を見に行ってきました。
 本作品はG会報で以前にも取り上げたことがありますが、戦後の混乱期にネガもプリントも行方知れずになっていた、文字通りの「幻の円谷作品」です。それが昨年、偶々市井の好事家の蒐集品の中より発見され修復が加えられて、本秋開催された第五回京都映画祭にて漸く陽の目を見る結果となりました。我々特撮映画を愛好する者に取って、これまで想像や様々な憶測だけで語られてきた作品が遂にその姿を白日の下に現した、特筆すべき大事件と呼べるでしょう。
 そこで今回は、プリント発見から上映に至るまでの経緯とその作品内容について報告させていただきます。

   ・ 発見から修復まで
  玩具映画プロジェクト……聞き慣れぬ言葉ですが、これが全ての始まりでした。
  以前NHKでも特集が組まれましたが、我が国では昭和初期辺りからミニパテーなどの家庭向け小型映画が全盛となった時期がありました。勿論これも裕福な階層に限ってのことでしょうが、現在のホームビデオの様な感覚でプライベートな記録映像の撮影(例えば手塚治虫先生の父君などは南京陥落の提灯行列を何とカラーフィルムで撮影したそうです)が盛んに行われる一方で、今の世の我々が映画のDVDソフトを買い漁るようにして、当時の劇場用映画を家庭向けに縮小したフィルムを蒐集するコレクターが少なからず存在していたようなのです。 つまり前掲のプロジェクトと云うのは、大阪芸大の太田米男教授が中心になって、そうした個人宅に死蔵されている昔の家庭向け映画フィルムを広く募集して修復の手を加え、貴重な映像作品を後の世に残そうとするためのものでした。
 そこに円谷作品のミッシングリングとも呼ぶべき『海軍爆撃隊』の十六ミリフィルムが寄せられたのです。
  冒頭の言葉を繰り返しますが、以前より本作品は一般公開用のプリントはおろか、マスターポジやネガ原版に至るまで終戦時のドサクサに喪われ(戦犯追及を逃れるため処分されたとの見方が一般的です)ており、進駐軍の押収した我が国の国策映画リストにも作品名を見つけることは出来ないとされていました。
  当時劇場公開された『海軍爆撃隊』の三十五ミリポジは四十数本プリントされた記録が残るそうですが、これとは別に海軍軍事普及部を介して公共団体などにPR用に売買された十六ミリ版プリントが三十数本存在したとされます。従って今回発見されたフィルムは、その内の一本が個人の手に渡り、幸運にも後世に伝わったものなのでしょう。
 御存知の通り、極初期の映画フィルムは強い可燃性がありました。日本映画の父・牧野省三監督などは、これが原因で自宅を全焼させてしまったことがある程です。そうしたことから、やがてそれは安全性の高いアセテート製の不燃性フィルムに置き換えられていきます。
 今回、京都の映画蒐集家から供出された十六ミリ版『海軍爆撃隊』のプリントも不燃性のものでした。しかしこのアセテート製フィルムには経年変化に弱いとする致命的欠点があったのです。これは長時間を経るうちにフィルムが空気中の水分を徐々に吸収して加水分解を起こしてしまうもので、一種独特の酢酸臭を発することから「ビネガーシンドローム」と呼ばれています。
 
プリントを実見された太田教授によれば、既にフィルムが溶け出してワカメ状になっていて、映写機に掛けることもままならぬ状態だったそうです。それを昨今のデジタル技術を用いて何とか鑑賞に堪えうるまでに修復を行ったのが、この度公開されたプリント(三十五ミリ版にブローアップされています)という訳なのです。東宝に於ける円谷特撮の最初期の作品である『海軍爆撃隊』に見られる特殊撮影は、ミニチュアワークにしろスクリーンプロセスにしろ技術的には至って初歩的なものですが、そうしたベーシカルな特撮映像を六十年後に蘇らせたのが、我々古いタイプの特撮ファンの嫌う「最新のデジタル技術」であるというのも何だか皮相な感がありま
す。
 ちなみに原版となった最初の十六ミリ版プリントは、加水分解のため現在では完全に消滅して跡形もないとのことですから、正に薄氷を踏むような修復作業だったワケです。

           
     ・ 内容@ タイトル〜中攻隊出動
  さて、いよいよその内容に移ります。
  冒頭の東宝マークは公開年度が同じ『燃ゆる大空』のものと同一で、丸に「東宝」の周囲をリング状の帯が回転する初期タイプのものが使われていました。
 次いでこの手の作品では御馴染みの後援者たる海軍省やら海軍軍事普及部やらの名前が仰々しくスクリーンに現れ、やがて勇壮な音楽(
by早坂文雄)が高まったところで『海軍爆撃隊』の題名が映し出されます。
  タイトルのバックは仰瞰で捉えた大空で、画面を上から下へミニチュアの九六式中型陸上攻撃機(以後、中攻と略す)が舐める様に飛び過ぎる毎にクレジットタイトルが差し替わる趣向で作られているのですが、脚本の北村小松と監督の木村荘十二の二枚タイトルが出た直後にバッサリとハサミが入れられ、全く唐突に本編ドラマが開始されます。このため、本作品で初めて使用されたとされる「特殊技術・圓谷英二」の歴史的クレジットタイトルは残念ながら目にすることが出来ませんでした。
 しかも驚いたことには、その本編にしても中攻隊がイキナリ戦場へ向けて出撃する場面から話が始まってしまうのです。
 当時の映画雑誌に掲載されたストーリー紹介などを見る限りでは、前半のドラマ部分がゴッソリ切られているのは明らかです。映画の終盤で何の伏線もなく登場する基地の整備員や軍医長、それに揚子江を遡上する砲艦の乗組員などは、本来なら恐らくこの切り落とされた前半部分で予め紹介されているものと見るべきなのでしょう。なお話が先走りますが、クライマックスである衡陽の敵飛行場爆撃シーンは殆ど切られずに残っていましたから、ご安心ください。

  資料によればオリジナル版の上映時間は七十九分となっていますが、現存する修復版は正味五十分弱しか無く元の所有者が何らかの理由で手を加えて短縮版にしてしまったと考えられます。戦時中、前線の慰問用にネガ原版を切り刻んで短縮版を作ってしまったため、今では全長版を見ることが出来ない『燃ゆる大空』とはまた異なるいきさつながら、古い映画作品が本来の姿のまま後世に伝わることの困難さが改めて痛感されてなりません。
 ところで先に「クライマックスの衡陽の敵飛行場爆撃」と書きましたが、これは原作と脚本を担当した北村小松(『燃ゆる大空』の原作も担当しています)が本作品を手掛けるに当たって、昭和十三年八月十八日に実施された海軍航空隊による同地への爆撃作戦に取材しているためです。
 本作戦は完成した映画にもあるように、中国軍戦闘機の激しい反撃のため非常に苦戦したとされます。主人公の中野大尉(演ずるは後のヌイグルミ俳優・手塚勝己!)のモデルとなったのも、このときの戦闘で九死に一生を得て生還した第十三航空隊の野中太郎大尉(後中佐、海兵五十七期)でした。
 野中は生還後、この日の爆撃行の経験を部下の大竹典夫一空曹に口述筆記させていて(雑誌『歴史と人物』昭和五十八年一月増刊号352ページにその記述あり)、その手記を借り受けて原作となる新聞小説を書いたのが北村小松だったのです。ちなみに、戦後になって中攻関係者の膨大な証言で編まれた『海軍中攻史話集』(中攻会編)にも野中の手記が掲載されていますが、殆ど映画そのままの内容でした。
 ちなみに北村は円谷と同い歳の明治三十四年(1910年)生まれで青森県出身。我が国初のトーキー映画『マダムと女房』の脚本家として有名な一方、C
.ブラウンの小説『夜間郵便飛行』の翻訳を手掛けるなど、相当の飛行機マニアだったとされます。(そうした逸話については春陽堂より戦前に出版された『日本戯曲全集・現代編第十八輯』の後書きに詳しく載っています)
 そんな北村は昭和十三年九月、文芸家協会会長の菊池寛を団長に組織された文士部隊の一員として、大陸の戦場を訪れることとなりました。なお、このとき同行したメンバーの中には吉川英治、佐藤春夫、浜本浩、吉屋信子などがいました。
 彼ら文士部隊が日本軍占領下の南京・大校場飛行場に展開していた海軍航空隊を慰問に訪れたのは、前述の衡陽爆撃から一月を経た昭和十三年九月二十日のこと。このとき撮影された作家たちと海鷲たちが一堂に会した記念写真が雑誌『丸エキストラ』平成十年三月別冊号の228ページに掲載されており、その中で小太りな北村のすぐ前に身を屈めて写っている三種軍装姿の痩身の人物こそ、原作小説の基となる手記を書いた野中大尉その人なのです。
 こうした作家たちの所謂「文学報国活動」は、敗戦後に戦争協力者のレッテルを貼られるのを恐れたためか資料や記録がナカナカ見つけられませんから、この写真の存在によって初めて、北村が野中に取材を行った場所と日時が特定できたことになります。

  閑話休題。短縮版の辺りから話が酷く横道に逸れてしまいましたが、ともかく現存のプリントでは敵飛行場爆撃のため、ミニチュアではない本物の中攻の大編隊が次々発進していく場面が本編の始まりとなります。
 
これらの実機撮影は千葉県の木更津飛行場と中国大陸の漢口飛行場の二ヶ所でロケーションが行われました。うち、俳優が絡む場面はやはり国内の木更津で撮影された模様で、一方、外地である漢口飛行場でのロケは木村荘十二監督以下数名のスタッフのみで実施されました。特に戦場に近い漢口ロケでは撮影の最中に敵機の空襲(昭和十四年十月三日)があり、カメラマンの三木茂などは爆弾が落ちると同時にキャメラに抱きついてこれを庇ったとの逸話が海軍側のロケ接渉者を務めた巌谷二三男大尉(後少佐、神戸高等商船出身)によって残されています。(原書房『中攻〜その技術発達と壮烈な戦歴』124ページ参照)
 かくして敵地に向けて飛び立った中攻隊ですが、この辺りからいよいよ我らが円谷英二の出番となります。本作品最初の特撮カットは、出撃する機内より見た、遠ざかっていく飛行場のマットアートでした。
 当初、恐らくこれは「W基地」なる秘匿名称で呼ばれていた第一線基地たる漢口飛行場の様子が判ってしまうような実景シーンを使うことが軍機の関係で許可されなかったための処置ではないかと深読みしたのですが、そのくせ映画の後半で全く同じ飛行場の実写の俯瞰が出て来るので、ただ単に丁度良いサイズのカットが無かったためにマットアートを用いたのが本当のトコロかと思われます。
 勿論、その実写映像が漢口基地であるとする確たる証拠はありません。しかし、かと云ってそれが木更津基地でないことは滑走路の設置状況(調べてみると当時の木更津基地は3本の滑走路がK字型に走っていますが、映画のそれはX字型に二本のみ交差していました)の違いから断言出来ます。なお衡陽攻撃時に中攻隊が実際に発進したのは漢口ではなく、前述した大校場飛行場であることを付記しておきます。
 続いて離陸を終えた中攻が車輪を機内に収容する様子が劇部に於ける本作品最初のミニチュアワーク(勿論、これも飽くまで短縮版で見た限りと云う意味ですが)で描かれます。
 以上、攻撃隊発進時で用いられた主な特撮カットはこの二つだけで、敵地へ向けて飛行中の場面は殆ど全て実写で済まされていました。お楽しみは後に取って置けとでも云っているみたいです。

  ところで申し遅れていましたが、半ばワカメ状になったフィルムから修復されたためプリントの状態は御世辞にも良いとは云えず、画面の全編に渡って蜘蛛の巣状の細かなキズが走っている有様なのですが、そうした画質と同様、音声の劣化も相当キビシイものがありました。
 特にこの敵地へ向かう機内での会話は、エンジン音が常にセリフに被っているため聞き取るのがかなり困難です。そんな中で搭乗員を演じる藤田進、宇野重吉らが「愛国行進曲」を鼻歌混じりに口ずさみながら機銃の手入れを行う場面が印象的に描かれています。
 また細かな話ですが、進撃中の爆撃隊と基地との電信の遣り取りの中に「午前六時二十分」なる表現が出てきます。これは海軍で本来用いられる「マルロクフタマル(○六二○)」なる時刻表現が余り一般的でなかったための処置ではないかと思われます。
 かくして海軍爆撃隊は、我々観客の期待を一身に背負いつつ、刻々クライマックスへ向けて飛行を続けるの
です。

     ・  内容A 爆撃〜死闘
 眼下に流れる湘江を辿り、重畳たる山並みを飛び越えて、ついに中攻隊は爆撃目標である衡陽の敵空軍基地を指呼の間に望む辺りに達します。機内に「戦闘準備」(本来なら海軍では「合戦準備」とするのが正しいようなのですが)が掛けられ、搭乗員たちは一斉に配置に就きます。
 ここで注目を集めるのが、精巧に再現された『垂下塔』と呼ばれる隠現式の機銃座の本編セットです。これは初期型の九六式中攻特有の装備で、機体の空気抵抗を減らすため、邪魔な機銃座を通常は機内に収容しておき、交戦時にのみ突出させて使用するというものです。劇中でも円筒状の銃座に就いた射手がハンドルを回して銃座本体を機外に出し入れする様子が、本編セットとミニチュアの両方を使って描かれていました。
 岩波書店『講座日本映画A無声映画の完成』の254ページに本作品を手掛けた木村荘十二監督の貴重な証言が掲載されています。それによると海軍側は軍機をタテに、中攻の機内に俳優やスタッフが乗り込んで映画撮影することを絶対に許可しなかったそうです。
 このため木村荘監督以下の本編スタッフは、ワザワザ実寸大のレプリカセットをスタジオ内に作って機内での芝居を撮影せねばなりませんでした。しかも、そのセットを作るために実機の見学を申し出ても、参考用に機内の写真やスケッチを取ることは厳禁で、その寸法を測ることすら許されず、仕方なくスタッフは両手を広げて機体各部の採寸をせねばならなかったといいます。
 そのような極秘体質の海軍が、精巧な垂下塔のセットを映画会社が作るのをよく許したものだと思いました。しかし実際のところ、この垂下塔と云うのはアイデア倒れの装備で、中国での実戦を経た後早々に廃止されていますから、この周囲に関しては余り目クジラを立てられることが無かったのかも知れません。
 かくして戦闘準備が整い、衡山上空より爆撃針路に入った中攻隊は、激しい高射砲の弾幕を衝いて敵飛行場に襲い掛かります。
 前述の通り「目の子で測ってそれらしい計器や配線を施しただけ」とする割りには、この実寸代の機内セットは美術スタッフの力作と云って良く、特に爆撃照準器などはデタラメ(?)ながらもかなり精巧な出来でした。
 当時、中攻に装備されていたのは「九○式一号」と云うタイプのもので、搭乗員たちは「ボイコー」と呼んでいました。これは原型となった外国製爆撃照準器の名前がそのまま愛称に使われていたものです。

  このボイコーは実際の使用時には投弾のタイミングを計るためのゼンマイ式タイマーを起動させねばならぬのですが、流石に劇中でそうした描写(後年の『太平洋の嵐』では出てきます)はありませんでした。また照準器の視野を通したカットにしても、本来なら「水平出し」をするための気泡が視野内に封入されている筈なのですが、やはり当時の作品にそこまで求めるのは酷と云うものかも知れません。ちなみに微調整を要する照準器の操作は、手袋などせずに素手で行うのが海軍では正式な方法と聞きます。
 やがて爆撃手の覗くボイコーの視野いっぱいに敵飛行場(マットアート?)が捉えられ、一斉に爆弾が投下されます。
 この投弾シーンでは機内からの主観カットは実戦の記録映像が流用され、後続編隊のそれはミニチュアワークが用いられていました。映像的にちょっとチグハグな印象を与えるこのときの反省によるものかは不明ですが、円谷本人の証言によると、すぐ後に手掛けた『燃ゆる大空』で同様の場面を撮るのに際して、爆弾投下からその着弾までをミニチュアを用いて何と「1ショト」で描こうという無謀なアイデアがあったとされます。勿論、それはアイデアだけで終わりましたが、一時は俯瞰撮影に用いるために奥秩父の渓谷に掛かる吊橋にロケハンするなど、凄まじいばかりのチャレンジ精神を発揮したと聞きます。
 また前掲した木村荘十二監督の証言によると、敵飛行場が爆撃される場面では、巨大な水槽の中にそのミニチュアセットを作り、着弾点となる場所に予めゴムホースを埋設しておいて、そこから白色やネズミ色の液体を水中に噴出させることで基地が炎上するのを表現しようと試みたとされています。しかし、編集の段階でオミットされてしまったらしく、現存するプリントではそれを確認することは出来ませんでした。
 この撮影に用いられたミニチュアセットは、水中を通して撮影すると全体像が歪むことを考慮して、光の屈折率まで計算にいれたパースがつけられていたとされますから、ここでも円谷英二のモノマニア振りが窺われます。もし残されていたとしたら、後年の『海底軍艦』や『緯度0大作戦』の火山爆発の原型となった特撮として話題に上ったかもしれず、残念でなりません。
 結局、衡陽の敵飛行場が被爆、炎上する場面は普通にステージ内に組まれたミニチュアセットを用いて撮られています。この周囲に関しては、当時の批評家から酷評されている通り技術的には未だ発展途上の段階にあると見るべきです。とは云え、中攻機内からの主観で捉えたカットなどは常にカメラに動きを加えることで画面に迫真感を与えようとしており、そうした研鑽の積み重ねが四年後の『加藤隼戦闘隊』でのラングーン爆撃の様な名特撮シーンを生み出すことになったと評価出来るでしょう。
 かくして「敵中型機十六機、格納庫三棟、燃料タンク三基破壊」の大戦果を味方基地に報じた中攻隊ですが、凱歌を挙げる暇も無いまま敵戦闘機の激しい反撃を浴びることとなります。そしてここからが本作品に於ける円谷特撮の本当の見せ場となるのです。
 空中戦のシーンで何よりも眼を引くのは、実に三十カット余りに上るスクリーンプロセス応用の合成カットです。実寸大に組まれた中攻セットのキャノピー越しや機銃座で戦う搭乗員と、ミニチュアで撮影された敵機とがダイナミズム溢れる構図で一つに合成され、クライマックスを盛り上げていきます。
 勿論、当時のスクリーンプロセスは、ホリゾントの後側から背景となる映像を投影するリア・プロジェクション方式であるため、どうしても俳優の演じる前景に比して画調がトーンダウンしてしまう欠点がありました。
 この技法も円谷の手によって昭和十二年公開の『新しき土』で本格導入が果たされたものですが、技術的にはやはり発展途上の段階の様に感じられました。しかし、そうした点を考慮に入れても、円谷英二という人物の「絵心」の素晴らしさを堪能出来る、凝りまくった構図の合成画面が頻出するのです。中でも被弾し黒煙を引いて降下していく中野機と、飽くまでそれに食い下がる敵機とを、僚機の機銃員が悲痛な叫びを漏らして見守る様子を1ショットで捉えたシーンなどは胸に迫るものがあり、本作品最高の特撮場面ではないかと思われてなりません。
 なお当時の映画雑誌で円谷の語ったことによると、『海軍爆撃隊』では合成技法としてスクリーンプロセスの他にダニングプロセスを用いたとしていますが、これも現存のプリントでは確認出来ませんでした。このダニングプロセスというのは、モノクロフィルムの感色度の違いを応用した合成技法を云い、昭和十八年公開の『阿片戦争』(マキノ正博監督作品)などにも用いられています。
 ちなみに円谷英二研究の第一人者である竹内博氏によると、東宝文化映画部で昭和十三年に円谷が手掛けた映画『嗚呼南郷少佐』にダニングプロセスを使った合成場面があり、これが東宝での円谷特撮の第一号であるとされます。そして『海軍爆撃隊』も当初は同じ流れで東宝文化映画部に海軍省委託作品として発注され、後に劇映画部門に移行された企画でした。
 また当時の批評の中に「敵機のミニチュアは正確に作られている」とするものがある通り、この襲い来る中国軍戦闘機のミニチュアワークなども縮尺率の異なる大小のミニチュア飛行機を用いて上手に画面の奥行きを持たせており、操演も思いのほか巧みに感じられました。
 これら敵機のミニチュアに関しては、日本軍から「アブ」と呼ばれていたソ連製のE
-16(一般にはI-16と表記しますが、本稿では旧海軍での表記方法に倣います)などはズングリとした機体の特徴が良く捉えられていました。しかし、複葉のE-15の方は何故か上翼の取り付け方式が実機とは異なった姿で作られており、その理由は不明です。また、この戦闘で初めて出現したとされるフランス製のD510戦闘機(こちらは日本の将兵から「アシナガ蜂」なる渾名で呼ばれていました)などは、プロペラ軸に装備した機関砲(所謂モーターキャノン)を発砲する場面までミニチュアで再現する凝りようでした。
 
一方、飛行機の主役たる我が九六式中攻のミニチュアも軍機の分厚い壁があるにも関らず正確で、機体外部に張られた無線用のアンテナ線まで忠実に再現しています。もっとも木村監督の言によると、このアンテナ線を見て勘違いした或る映画評論家から、
「あのミニチュア、トリック撮影のピアノ線が丸見えですよ」
 
と要らぬ忠告を受けて閉口したとされます。
  さて、特撮に関するお喋りが長くなりましたが、こうした特撮班の奮闘に呼応して、修羅場と化した機内を描く本編側にも当然力が入れられることになります。
垂下塔の機銃座に就いた羽山一空(扮するは若き日の宇野重吉)が上下左右巧みに射角を変えて機銃を撃ちまくる場面では、その銃架のメカニズムの再現の見事さに目を奪われます。また機銃本体にしても、レプリカなのか廃銃を借り受けたものかは不明ながら、排莢こそしないものの、イギリスのルイス機銃のコピーである留式七・七ミリ旋回機銃がソックリ再現されています。取り分け、上部機銃座に取り付いた藤田進演じる栗本二空曹が自決用の十四年式拳銃を首から長い紐でブラ下げた姿で、連続射撃のため過熱した留式の銃身に三ツ矢サイダー(実戦では他にも嗜好品としてキリンレモンなども積んでいた様です)をブチまけて冷やしながら、射撃を続ける場面が強く印象に残りました。
 今回、撮影に使用された中攻の実寸大セットは、従来の砧の東宝撮影所ではなく、渋谷寄りの高台の上に完成したばかりの合資会社映画科学研究所のスタジオ内に作られました。ここは国民の戦意高揚のためのプロパガンダ映画や、将兵教育用の軍事教材映画などの国策映画制作を行う目的で作られたもので、ワザワザ一般の撮影所から離れた場所を敷地としたのも機密保持を第一とする理由があったためでした。

  再び木村監督の証言に注目すると、この機内セットはかなり手狭に出来ていたため、アングルによっては通常の三十五ミリカメラが設置出来ず、アイモを使用したり、終いには機体の一部を切断して撮影をしたと言われています。
 また、この狭苦しい機内セットには前述の藤田進、手塚勝己に加えて津田光男までが搭乗員役で乗り込んでいて、後年の円谷作品を愛好する者として何とも奇妙な感慨を覚えたことを付記しておきます。

  かくして激戦数合、終にエンジンに被弾し火災を起こした中野機は、機を急降下させることで何とか消火に成功します。機内でも二名が敵弾に斃れ、エンジンは片方を残すのみ。執拗を極めた敵機の反撃も止み、やがて彼らは蹌踉とした足取りで長く苦しい帰還の途に就くことになるのです。
       ・  B 生還〜エピロオグ
 
何とか死闘から生き延びた中野機ですが、機体は疵だらけでオマケに片肺飛行、機内には負傷者が横たわる始末です。中でも重傷の羽山一空(宇野重吉)は通信用紙に、
「分隊長、声が出ません。二人共電信員がやられて、一番機でありながら任務につく事も出来ず申し訳ありません」とするメモを機長である中野に渡しています。このエピソードは軍国美談として当時は割合と有名だったようで、本作品公開時には宣伝コピーとして新聞広告などで盛んに使われています。
 傷ついた部下を何とか救おうと決意した中野は片肺飛行での高度を維持するため、余分な燃料はおろか、電信機、機銃とその弾薬、食料や飲料水に至るまで、不要な重量物の一切を投棄するよう部下に命じます。このとき藤田進が何か曰く在り気なバックや小箱を残念そうに機外に投じるシーンがありますが、恐らくカットされている前半のドラマ部分に答が隠されているものと想像されます。
 やがて彼らの行く手を阻むかの様に、萬羊山脈の峻厳たる山容が立ち塞がります。傷ついた指揮官機をエスコートするため上空に残った二番機から「ガンバレ!」の声援を受けつつ(ここにもスクリーンプロセスが使用されていて、胸に迫るものがありました)ジリジリと高度を取っていく中野機。樹林の梢を掠めるようにして飛ぶその姿は、後に『ハワイ・マレー沖海戦』や『太平洋の嵐』で描かれた、山脈スレスレを真珠湾目掛けて突入する九七式艦攻の特撮シーンを連想させます。(流石にペラの後流で木々が揺らぐ様な描写はありませんでしたが)
 やがて樹層地帯を抜けた中攻は山脈のピークを這うようにして飛び越えます。当初、この山岳地帯のミニチュアセットはステージいっぱいに何と二十間四方の巨大なものを拵える予定が予算の関係で譲歩せねばならなくなり、結果、円谷自らが、
 「あんなマズイものになってしまった」
 と後悔の言葉を漏らすことになったとされますが、画面で見る限りは然程アラが目立つものではありませんでした。
 かくして難関を突破した中野機の眼前に白い帆を張ったジャンクの浮かぶ?陽湖の光景が広がる辺りは、野中大尉の手記がそのまま再現されています。

 ところが一難去ってまた一難。やっとのことで味方基地上空まで辿りつき、いざ着陸の段になって車輪を降ろしてみたところ、片方が先の空中戦の際にパンクしていた事が分かります。(この場面もミニチュアが使われています)
  このまま降着しては転覆の恐れがあるため、中野は部下に命じて健常な方のタイヤを射撃させます。これは左右両方のタイヤの接地圧を等しくさせるための処置でした。この挿話は野中大尉の手記にはありませんでしたから、北村小松の創作(或いは別の取材?)らしいのですが、やはり大のヒコーキ狂とされる原作者らしいこだわりが感じられるシークエンスに思えました。 こうして見る者を最後まで飽かせることのないまま、中野機は生還に成功します。
 「良く帰って来てくれたな。心配したぞ」
と傷だらけの機体にまるで我が子を相手する様に語りかける整備長(坂内長三郎)や、負傷した自分を置いて戦友たちが再び出撃していく姿を見て悔しがる宇野重吉に、
 「俺なんか軍人のクセに、一度も前線に出たことがないんだぞ」
 と優しく諭す真木順演じる軍医長(モデルは十三空の奥山晨一郎軍医大尉か?)などが次々現れますが、これらは前述した通り幻となった前半のドラマ部分に予め登場していたものと考えられます。
 エピロオグは長江を攻め上る味方砲艦の将兵たち(この辺りは木村監督の前作『揚子江艦隊』の流れでしょうか?)の見守る中、大陸の空を圧して進む中攻の大編隊の実写ショットで幕を閉じます。洋の東西を問わず、この手の航空映画に常道の纏め方でした。
 以上、映画『海軍爆撃隊』について長々と見てきました。
  今回、初めて幻の作品を目の当たりにした私が何より感じたのは、「戦意高揚」を目的とした国策映画でありながら、酷く淡々とした印象を与えるセミドキュメンタリータッチのその作風です。
  勿論、全長版でないことは考慮せねばなりませんが、特に声高に忠君愛国精神を訴えるでもなく、例えば前述の軍国美談として持てはやされた「分隊長、声が出ません…」のメモのエピソードなども、実にサラリと受け流してしまう淡白さには甚だ意外の感を持ちました。またクライマックスへのドラマツルギーの盛り上げ方自体も、敵撃滅を誇らしげに謳い上げることなどよりも寧ろ、生還のために搭乗員たちが必死に努力する後半に明らかに重点が置かれている様に感じられてしまうのです。これも傾向映画『何が彼女をさうさせたか』の助監督を務めたり、撮影所の労使闘争で投獄された経験のある「転向派」監督・木村荘十二のパーソナルの現われと見るべきなのでしょうか?
  戦時下、同種の国策作品を作らせた軍部と、その仕事を受け負った映画人との間に今回のような体温差が見られることは決して少なくありません。例えば山本嘉次郎監督の映画『雷撃隊出動』に見受けられるあのペシミニズムは、大戦末期の旗色の悪さを多少なりとも国民に知らしめることで戦意を奮起させ、聖戦完遂を謀ろうとした「決戦輿論指導方策要綱」なる政府方針(昭和十九年十月公布)がもたらしただけのものとは決して思えないからで
す。
 勿論だからと云って、それが戦時下で政府や軍部の命じるまま国策作品を手掛けてきた映画関係者の「免罪符」となろう筈もなく、円谷英二や北村小松などその多くが敗戦後間もなく、新たに我が国映画界に組織された「自由映画集団」からの厳しい戦争責任の追及に晒されることになるのですが…。

  先走った話を映画『海軍爆撃隊』に戻すと、本作品で初めて「特殊技術撮影」のクレジットタイトルを得ることとなった円谷英二は、作品完成後の反省点として、特撮面での演出者の必要性を強く感じたとしています。この、彼が希求して止まない「特技監督」なる名称が与えられるには更に十五年余りの日子を要することになります。しかし、その間に手掛けることになる数々の作品を鳥瞰すれば、技術面で様々な反省点を覚えることとなった『海軍爆撃隊』が、その実、我が国の特撮映画発達の側面において、極めて重要な試金石となっていることに気付かされるのです。
 しかも、そのことは円谷一個人のみならず、東宝撮影所の関係者の多くに特殊技術撮影に対する認識を(無論、その限界といった点まで含めて)認めさせる機会ともなっています。
 本作品公開から一年半余り後、我が国は世界を相手とした無謀な戦争に突入して行きました。その開幕となった真珠湾空襲の報道写真がデカデカと掲載された新聞紙面を目の当たりにした東宝の森岩雄重役は、『海軍爆撃隊』制作時の経験から、
 「我が社のトリック撮影でこれを劇映画として再現出来ぬものか?」
 
との天啓を受けたとされます。云うまでもない、映画『ハワイ・マレー沖海戦』誕生の一挿話です。かくして不遇だった円谷英二が国策映画『海軍爆撃隊』で初めてクレジットタイトルを得たように、戦争は彼を時代の桧舞台へと押し出して行くのです。
 今回の幻の映画『海軍爆撃隊』フィルム発見が、そうした「映画と戦争の関係」を今一度見直す端緒となることを願いつつ、筆を置きたいと思います。
                                                    (本稿終わり)


※参考:円谷英二初特撮映画「海軍爆撃隊」、復元され京都映画祭で上映
                             (
京都民報Webより
 ウルトラマンやゴジラなどの生み出した円谷英二(1901ー07)が初めて特撮監督をした戦意高揚のための国策映画「海軍爆撃隊」(木村荘十二監督)が復元され、第5回京都映画祭(10月24日〜29日)の中で、京都ドイツ文化センターにて10月25日、午後16時20分と19時に上映。
 「海軍爆撃隊」は、海軍省後援で東宝が40年製作。中国大陸を舞台に、日本海軍の爆撃機が中国軍機の攻撃で被弾しながらも、基地に帰還するストーリー。実写を交え、空中戦や爆弾投下などで特撮を駆使しています。搭乗員役には若き日の宇野重吉の姿もあります。
 フィルムの存在が確認されていませんでした。今春、保有している収集家がいるとの情報を得た京都映画祭企画委員会は、デジタル版で復元することを条件に収集家から寄託を受けたもの。 フィルムはもともと35ミリ、78分でしたが、寄託されたものは16ミリ、50分。同映画祭総合プロデューサーの中島貞夫監督は「海軍がPRのために再編集し、公民館などで上映したのでは」と見ています。 円谷英二は、太平洋戦争開戦1周年記念に東宝が製作(海軍省後援)した国策映画「ハワイ・マレー沖海戦」(山本嘉次郎監督)で特撮監督として知られるようになります。戦後、戦意高揚映画製作に協力したとしてGHQにより東宝を公職追放(47年)され、52年に解除されました。