2012年 第3号 Vol.166
 
 編集・構成 奥貫 晃

 
 発行人:今井 康了
 発行:日本特撮ファンクラブG
 

 はじめに


 残暑もようやく収まりましたが皆さんいかがお過ごしでしょうか。

 さて、前号でも予告しました都内で開催中の『特撮博物館』、行かれた方も多いかと思います。私は7月16日に行ってまいりましたのでまずはレポートから行きましょう。

 行ってきたぞ!特撮博物館


 順路前半は東宝、円谷プロ作品を中心としたミニチュア展示ですが、メジャーなものからマイナーなものまでこれが聞きしに勝る物量でした。実際の劇中での映像や写真で見慣れた、ものによっては模型が部屋に飾ってあるミニチュアや着ぐるみですが、撮影用のスケールで直にあると見入ってしまいますね。'06年版『日本沈没』で使われた民家のように、部分的にミニチュアを作りCGと合成される近年の作品のものも興味深いものがありました。ただ、展示の趣旨に反するから出さなかったのかも知れませんが、出来れば合成された完成画面も紹介してあればより引き立ったかと思いました。

 『巨神兵東京に現れる』上映を観て順路は後半へ。「特撮倉庫」では東宝撮影所に残っていた、比較的最近の『ローレライ』から円谷英二監督現役時代の作品のものまで、画面を彩った乗り物や建築物等、名脇役のミニチュアが所狭しと展示されていました。特に目を引いたのは『青島要塞爆撃命令』や、『妖星ゴラス』で使われた機関車の、金属製で大スケールのミニチュアでした。錆び付いてはいるものの原型はほぼ留めており、50年近く前のものがよく残っていたものです。実は倉庫の奥にあり重いので難を逃れたのかも知れませんが、考えてみれば映画の1シーンの撮影だけの目的でこれだけのものを作っていたという事に驚かされます。

 
そういえば今回は東映関係の展示物がありませんでしたが、『宇宙からのメッセージ』に登場した地球軍戦艦の展示が考えられていたそうで、去年廃棄されてしまい断念した話が雑誌に載っていました。残念な一方で去年まで残っていたというのはかなり意外でした。

 
次の順路は『巨神兵東京に現れる』初め特撮のメイキング紹介。『巨神兵』の内容云々は置くとして、観たばかりの特撮シーンはこんな仕掛けでこんな方法で作っている事を、映像やミニチュアの現物を交えて紹介するというのは、ミニチュア特撮に興味を持ってもらう、興味を深める目的からすれば実に上手いし贅沢な展示と言えるのではないかと思いました。メイキング上映には実際かなりの人だかりが出来ていました。ミニチュアだけでなく、雛形や製作に使われた工具類の展示はこれまで他でもありましたが、音声ガイドで当事者のコメントまで収録している至れり尽くせりぶりでした。

 
そして最後のコーナーが、唯一撮影可の『特撮スタジオ・ミニチュアステージ』。ここまで見てきて、『巨神兵』含めこれまで様々な作品で使われてきたミニチュアが展示されたこのコーナーに来れば、特撮ファンならずとも気分はもう特撮スタッフでしょう。時間の許す限りあらゆるアングルで撮影に熱中してしまいました(ビルの裏側のベニヤに作品名が書き込まれているものもありました)。そんな訳でこのコーナーが一番時間がかかりました。
 開催期間が残り僅かですが、もしこれから初めて行かれるという方は、全部回るのに3時間はかかる事、上映や撮影で後半に行けば行くほど観るのに時間がかかる事は頭に置いておいて下さい。9月の連休に2回目に行った時は、午後2時過ぎに会場に到着してから1時間以上行列に並んだので、なるべく午前中に行かれる事をお勧めします。私見ですが撮影は通常のデジカメより携帯電話のカメラを使った方が、画質は落ちますがレンズが小さいので案外迫力ある画になります。

 さて、『特撮博物館』、私は今のところ2回行きましたが、一番意外だったのは老若男女幅広い客層で混んでいた事、しかも特撮には普段あまり興味がなさそうな若い男女の二人連れが多かった事でした。これは平日休日を問わず、他の日に行った人からも聞きました。これだけの客層なら『ウルトラマンサーガ』や『ゴジラ』ミレニアムシリーズ、東宝特撮のソフトはもっとヒットしてしかるべきだと思ってしまいます。しかし考えてみれば、これまでにも『東武ワールドスクエア』や以前私の地元で行われた鉄道模型のジオラマ展示には、やはり幅広い客層が目を輝かせてミニチュアに見入っていました。映像でミニチュア特撮を観るのと、直にミニチュア展示を観るのとではどこか目線が違うのだろうかと考えさせられます。メイキングに非常に力を入れていたので、送り手もその辺りは承知の上なのかも知れません。ミニチュア展示を入り口に、それらのミニチュアがどう映像に定着していくかを見せていく事で、CGとの葛藤を続けている(これからも続いていくだろう)ミニチュア特撮に、一人でも多くの人が関心を深めてくれるなら『特撮博物館』の意義は大きいと思います

 「緯度G大作戦2012春・トークショー再録『佐川和夫監督 円谷特撮を語る』」(前編)
  2012311日 みどりコミュニティセンター

 ゲスト:佐川和夫 特技監督   
 聞き手:中村 哲(株式会社キャスト社長)   奥貫 晃(日本特撮ファンクラブG)

――昭和14年、神奈川県のお生まれとの事ですが、子ども時代はどんなお子さんだったのでしょう?
佐川  太平洋戦争が小学校1、2年の時に終戦を迎えまして、ひもじい思いをした事しか憶えておりません。食べ物はご飯はなく、お芋の切れっ端やお芋の葉っぱを煮込んだものを野菜と言われて食べていたのを覚えています。

――『七人の侍』をご覧になって、映画界を志されたそうですね。
佐川  当時、中学か高校で、お小遣いがないので親にせがんで観せて貰ったのが『七人の侍』でした。映像の素晴らしさと、村を守るためにはこういう人達が必要なんだというストーリーがよく解り、感動しました。そんな印象で、私もこんな仕事がやってみたいなと思い付いたのが『七人の侍』でした。

――昭和33年に日大芸術学部に入学されて、同期には中野稔さんがいらっしゃりました。
佐川  昭和33年に日大芸術学部映画学科に入学しまして、その頃はまだ中野稔さんとは親しくなかったのですが、翌34年正月に、円谷英二監督のところへご挨拶に行かないかと声をかけてくれました。円谷監督は当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった黒澤明監督に肩を並べる存在でした。
正月の4日ぐらいだったと思います。呼び鈴を押したらオヤジさんこと円谷英二がいきなり出てきまして、「オヤジさんの作品を観まして、オヤジさんのような仕事がやりたいと思うのですが」と話したら、「今家族がいないから、話聞いてもいいよ」と応接間に通されました。それで、「両親がこの仕事をやってもいいというなら、何とか応援してもいい」という事になりました。当時円谷英二宅に研究所がありまして、特殊映像用のキャメラがあって、それを好きなようにいじっていいよ、そこで(特殊技術の仕事で)何がやりたいか、頑張りなさい(見極めなさい)と。そこに1か月ぐらいいました。こう話すと順調に聞こえますが、こうなるまでには3か月ぐらいかかりました。
その後に三木のり平さんの『孫悟空』と『世界大戦争』の特撮で、両方とも助手が足りないからやってみないかという事になり、アルバイトで東宝撮影所の助手に入った訳です。入った結果、徒弟制度の凄さを目の当たりにしまして、これは円谷のオヤジさんに会っておいて良かったと思いました。

――初対面時の円谷英二監督の印象はどんな感じだったでしょうか?
佐川  私が助手の仕事についた、職場での大監督の円谷英二と、家にいるオヤジさんの姿とあるんですが、自宅にいる時はあくまでもあなたの親と思って下さいという感じなんですね。私らにとってはそんなに距離は感じてなかったんですが、仕事場行ったらとんでもありません。ディレクターチェアに座っているオヤジさんの側に寄って相談するようなときに、うっかり見下ろして話してしまうんです。オヤジさんも自分の紹介で自分の子どものような扱いをしてくれているのでつい監督だという事を忘れて、上を向いて「いいよいいよ」なんて言う訳です。ところが300人いるスタッフの中でそんな事をする人は誰もいません。メインキャメラマンですら見上げて話す訳です。そういう事でスタッフの長の人からポカッとよく叩かれました。事務系の人や当時の副社長の森岩雄さんがいたりすると、「なんだあいつらは!」と事務所に呼ばれて、「始末書書け。円谷英二を見下ろして話したのはお前が初めてだ。謝れ!」となってしまう訳です(笑)。そんな事があったもので、入って1か月か2か月の頃にはもうこの世界はひどいもんだなと身に染みて感じるようになりました。東宝だけでなく他の映画会社もそんな雰囲気だったんじゃないかなと思います。
撮影や助監督のチーフが(キャリアが)15年ぐらいの人でした。俺も15年経って30幾つになってこんな事やってるんじゃ商売にならないなあと感じていました。

――その頃の円谷組は規模的に何人くらいだったのでしょうか?
佐川  一つの作品を作るのに、美術だけで200名ぐらいいるんです。なぜそれぐらいいるかというと、アルバイトのおばちゃんが100名ぐらいいる訳です。オヤジさんの作品はビル街よりも農家のミニチュアが多いんですね。農家には藁葺き屋根があって、庭には柿の木があったり、物干しがあったり、そういうのが一軒一軒全部美術の設計者の元で作るとなると100人ぐらいになる訳です。デザイナーは1人ですがチーフだけで15人はいました。
撮影については、1台のキャメラにキャメラマンとチーフに加え助手が4人で計6人という会社の組合での決まりがあったんですね。特撮だと最低2台出るんですが、(実際には)4台から5台は出るんです。5台とすれば撮影助手だけで20人。ロケーションになるとマイクロバスには乗り切れないので、撮影部だけで60人乗りの大型バスで行く訳です。 だからどうしても実際にセットに入るスタッフは300名ぐらいになりました。
オヤジさんの考えとして、嘘を作ってはいかんと。日本人の手先の良さで、日本人に出来る事はこういう事だという事で、人数は最低限これだけは確保していたんじゃないでしょうか。

――東宝撮影所の中で、衣食住全部賄えたという話を色んな方から聞いているのですが。
佐川  昭和34年当時の東宝では黒澤明監督の方が外貨を稼いでいたので、円谷監督より少しランクが上でした。黒澤明さんも300名ぐらいスタッフがいました。撮影所の 電力の配分の関係で、黒澤組と円谷組はどちらかが休まないと電力が間に合わない訳です。特撮はキャメラ4~5台でハイスピードを使いますから。黒澤組が朝9時から夜10時まで。円谷組が夕方6時から翌朝8時までというやり方で回転していました。
黒澤組と円谷組だけでも計600名が昼夜、撮影所で働いているので、社員食堂は24時間やっている訳です。(円谷組は)夕方が朝食で、夜12時が昼食で、明け方の5時が夕食みたいなものでした。当時の食堂はどんなものだったかと言うと、揚げ物の油はいつ替えたのかなというもので(笑)、真っ黒でした。食べた後で胸が焼けて。揚げ物だと食中毒が起こりにくいんで、魚でも焼いた方がおいしそうなのも全部揚げてました。一度、食堂が何かの事情で休みになった時に、近くの寿司屋から300食ぐらい出前をとった事があったのですが、それから何時間か後に大変な事が起きました。何が起きたかは言わない方がいいですね(笑)。それで撮影が3日ばかり休みになり、それ以来、生ものは一切駄目という事になりました(笑)。
話はそれますが、役者さんを撮影している本編についている助手さんだと、有名な女優さんはいつも袖の下をくれるとか、余禄があるんです。特撮は怪獣や機械が相手ですから差し入れしてくれるところがありません(笑)。それで食堂を頼ってしまうんですけど、オヤジさんが当時は(雑誌等の)記事を書いたり取材を受けたりすると、結構お小遣いが入ってくるので、そうするとたまには外で食べてこいと、オヤジさんからたびたび小遣いを貰う事もありました。その後テレビの仕事をやるようになって、チーフだった頃に一回だけ女優さんから(特撮スタッフが)食事に連れていって貰った事がありましたが、それ以外では一切なかったですね。
『ウルトラQ』が放送されるようになってからは、子ども達や親御さんが見学に来るようになって、親御さんがビールやお菓子をいっぱい差し入れてくれました。ウルトラマンの着ぐるみの古谷敏さんは子どもにモテまして、古谷さん宛ての差し入れがドッサリ来るんです。それで撮影が終わって着ぐるみのチャックを下ろす時に冗談交じりに、「(差し入れが)スタッフの方に廻ってこないなら脱がしてあげないよ」なんて言ったりする事もありました(笑)。古谷さんにもし会ったら謝ってましたと言って下さい。

――円谷監督からの教えで、一番身に染みた教えはなんでしょう。
佐川  『マイティジャック』に入った時に、「映像を作る上で何が大事か、一生懸命作る事は当たり前だが、もっと大事な事はお客さんが観てくれなければという事なんだ。お客さんの気持ちで映像を作るか、自分の映像を表面に出すかで、映像の作り方は変わってくるよ。」という話が一つありました。と同時に、演出するからには自分のポリシーを出さなければいい映像は撮れませんよね。自分の映像を出しながら、(尚且つ)お客さんが考えている(求める)イメージと同じような映像を作らない限り失敗ですよと、これはよく言われました。大変なんですけど、観る側に立って映像を作る事がまず第一条件と教えられました。
もう一つ、これは『マイティジャック』の後の方で、敵がマイティ号を奪う回(編注『戦え!マイティジャック』「マイティ号を問い返せ」)を撮った時に呼ばれまして「あれはやり過ぎだ。観る側はご飯を食べているかも知れないし、どういう年齢かも考えなければいけない。やり過ぎると観ている側は恐怖心を感じる。そうなったら失敗だと。同時に佐川はあれだけやったんだから次はもっと凄いだろうとどんどんエスカレートする事になって、お前は行き詰まるよ。」という事を言われました。やり過ぎなのかそうじゃないのか、どういう映像なのかというのは、映像を作る上で大切かなと思います。
今の映像の見せ方は、これでもかこれでもかというやり方が殆どですが、(これに対し)円谷英二もスピルバーグや他の監督も言っている見せ方が、ものが出てくる時の最初の映像は「出るぞ、出るぞ、出るぞ、ほら!」と煽っておいて出ないで、ホッとした時にバーン!と出す訳です。これが一つの手で、これをやるとお客さんは必ずついてきます。毎回やると大変ですが、こういう見せ方を心に持っていないと必ず自分が行き詰まるよと(オヤジさんが)生きてる内に言ってくれました。
今の映像の作り方は基本的に変わらないと思います。デジタルがいいか、アナログがいいかは非常に難しいかなという事ですかね。   (次号につづく)

 小松左京かく語りき                                  執筆 向畠正人

 2011726日、特撮界にも多大な影響を与えたSF界の巨星・小松左京さんが亡くなられてからはや一年がたちました。一周忌である今年の7月末までにささやかながら小松左京さんの追悼の文を書き、会報に載せたかったんですが遅ればせながら書かせていただきました。あまりに多様性を持つ人なので小松左京さんのある側面の氷山の一角ですが、少しでも小松左京の作品や人柄に興味を持ってもらえば、一ファンとして嬉しいかぎりです。 

【小松左京と震災】
 
 平成23年3月11日、日本の大地は轟音と共に揺さ振られ、その揺れに触発された津波が荒れ狂う神々の如く押し寄せた…そう、東日本大震災である。
地震に津波のみならず原発事故まで重なり、次から次へと飛び込んでくるニュース映像を見た日本人は、衝撃と喪失感を突きつけられ多くの人が思ったでだろう

『この国は大丈夫であろうか…?』と。

そして私はある一本の小説を想わずにはいれなかった。小松左京が書いた『日本沈没』である。
日本という国を一匹の龍に喩、日本が沈没していくさまは大叙事詩的であり詩的であり、同時に現実的(リアル)な描写であった。地震を予知し日本を愁う田所博士も国民の先頭に立ちリーダーシップを発揮する首相も現実にはいないこの日本で、かつて自身が書いた文章の一部分を現実にしたかのような震災の映像を見た時に小松左京の胸には一体何が過ったのだろうか…?

1995年発売の『日本沈没』光文社版の文庫のあとがきにおいて小松左京は

『この本がこれから起こるかもしれない災厄に日本人が対決するときに参考になれば筆者としてこれにまさる喜びはない』

と述べている。このことからもわかるように二十一世紀の防災思想を考えて書かれた作品と言っていいような作品になっている。この新装版が発売した年の初めに阪神大震災が起き小松左京自身ショックを受け丹念な取材をして毎日新聞に連載した『小松左京の大震災95』(毎日新聞社)を執筆している。
リメイクされた映画化に際して再び新装された2006年小学館文庫版の解説で堀晃はその本に触れ

『毎日新聞に一年間連載された『小松左京の大震災95』 (毎日新聞社)は『日本沈没』執筆後、地震研究(特に活断層研究)は進んでいるにもかかわらず「私の想像力でもフォローしきれず」「『イメージ』が描ききれなかった」ことから、阪神大震災を多角的に検証して「二十一世紀の防災思想」を目指した労作である。今回再読して、冷静に書かれているが根底に作者の静かな憤りを感じた。『日本沈没』 以来、地震科学も防災技術も進歩しているはずが、防災に関する行政上の問題など、多くの課題は残されたまま。何よりも市民の地震と防災に関する「知識」は増えたが「意識」は変わっていないのではないか。』

と評している。あまりに的を得ていて今あらためて読みかいしてみるとその重みをずっしり実感させられざるえない。そして国民はその「意識」の変革を半ば強制的につきつけられた。
小松左京のその静かな憤りは東日本大地震を経て亡くなる直前どのような眼差しでこの日本を見ていたのだろうか…?

【天才!コンピューター付きブルドーザー小松左京】

 小松左京は大学ではイタリア文学専攻していたがSFと出会い、文学の新しい可能性として認識して第一回SFコンテストに応募。のちに直木賞候補注目を集める『地には平和を』で応募したが入選せず選外努力賞にとどまった。審査委員の安倍公房や福島正実は才能をわかっていたのだろうが、東宝の田中友幸が強く反対したためだ。田中友幸としては映像化に向いた作品を入選させて映画化したいと意向があったためだろう。
のちにこの田中友幸は小説『日本沈没』の発売日に上巻を読みその場で小松左京に映画化権が欲しいと連絡して、プロデューサー・田中友幸、監督・森谷司郎、特技監督・中野昭慶、脚本・橋本忍による名作映画『日本沈没』が生まれることになる。

日本SF黎明期においてコンピューター付きブルドーザーと称されるほどSFを執筆しまくった。小松左京の凄まじいところはその数多の作品の一つ一つの質はもちろんのこと一SF作家にとどまらずあらゆる方面に活躍していったことだ。
1970年に開催された大阪万博では、1964年に『万博を考える会』を立ち上げて最初期からかかわり、開催時には総合プロデューサーは岡本太郎だか実質小松左京はサブプロデューサーの役割をはたした。
また万博の裏では国際SFシンポジウム開催を成功させ冷戦のさなかに東西SF作家を日本に招待した。その中にはアーサー・C・クラークなどの顔もあった。その事務局の実質責任者をこなした。

花と緑の博覧会(1990年)では総合プロデューサーをつとめている。
そんな中でも小松左京はSF小説はもちろんこと、ノンフィクションや紀行もの、ルポものに歴史や科学、大衆文化、文学…何でもこいのジャンルなんて存在しないかのように執筆し続けた。
小松左京の超人的な量の仕事量をこなす逸話にこんな驚くべき話がある

シンポジウムの司会をやりながら、メモをとるフリをしながらシンポジウムとは全く関係ない原稿を書いて『それに対してご意見はありませんか?』と他の参加者に振っておいてまた自分の原稿を書き始める。この状況を見た時は驚いたもんじゃなかったと豊田有恒は証言している。

一体どうしたらこんことができるのだろうか?天才がなせる技なのだろう。

日本SF作家クラブの旅行において小松左京と手塚治虫が同じ部屋で居眠りをしていて小松は大イビキをかくとその息が手塚の頭にかかって繊細な髪がヒラヒラゆれていた。それを眺めていた星新一が『こうやって見ていると二人とも酔っぱらい親爺だが、頭の中では凄いこと考えているんだよな』
と言ったという。すごいのがその時、小松左京の寝言でフランス語で質問してドイツ語で答えたという。それを見て星新一と石川喬司は唖然としたという。
まさに頭の中を見てみたいとはこのことだろう。

そんな仕事量、知識量、そしてその上に人垂らしの人間味で業界問わず交流をもち特に取材で知り合った科学者たちとの交流は大切にしていたようである。
そして小松左京は「専門家に聞く」という姿勢を貫いておりその上でどんなジャンルにおいても専門家と対等な意見がを交わしている。

【映画『さよならジュピター』について】

 映画化された小松作品は先に挙げた『日本沈没』(1973年)意外に『エスパイ』(1974年)、『復活の日』(1980年)(『復活の日』も語り甲斐があるのだが…)『首都消失』(1987年)等があるが特記すべきは『さよならジュピター』(1984年)だろう。
1977年の5月、米国で『スター・ウォーズ』が公開され、東宝ではそれに便乗したSF映画『惑星大戦争』が公開されるのだがその制作前に、東宝側から小松左京に原作提供の申し入れがあったのが、本作を制作するきっかけとなった。かねてから日本でも『2001年宇宙の旅』に匹敵する本格SF映画を作りたいと念願していた小松左京は、即席の便乗企画でなく、改めて本格的なSF映画をということで、東宝と合意。東宝は急遽、『惑星大戦争』を制作し、1977年12月に公開した。
小松左京は本格的な宇宙SFを映像化しようと自ら株式会社イオを立ち上げ、(結果的に)原案、脚本、総監督全て小松左京自らが担って作られた映画だったが作者本人さえも認める完全な失敗作だった。
特技監督・川北紘一をはじめとする特撮スタッフが作りだす宇宙の姿は当時としては第一級の技術であり、メカニックデザインも素晴らしい。それでもなお小松左京のイメージに映像技術が追いついてなかったのも原因の一つではあろう。
しかしプロットも素晴らしいのだが何よりも小説と映像は作り方が似ているようで全く違うということ。
小松左京自身は他の分野である映画人の人々をリスペクトして現場では何も文句などは言わず映画スタッフに任せたという。その畏敬の念は『東宝特撮全史』の田中友幸との対談の内容一つとっても明らかである。
たが小松左京を取り巻く若手SF作家達(株式会社イオスタッフ)と製作現場との温度差があり溝が横たわっていたのはたしかのようである。これが大きな要因であることは否定できないだろう。
個人的にはドラマも音楽ももっと重厚かつシリアスなつくりになってればと思う…
もししっかり映画全体をまとめられる監督や文章から映像化に長けた名脚本家がやっていたら…
『日本沈没』のメガホンをとった森谷司郎が同じ宇宙モノである宇宙飛行士のドキメンタリー『宇宙からの帰還』の準備していたが森谷司郎はこの準備中に病に倒れ降板する。それらの素材を生かして森谷司郎が『さよならジュピター』の監督に予定されていたのだが森谷司郎の死去によりメガホンをとることはできなかった…
歴史を語るうえで『もし』と言うのは野暮というものかもしれないが、
もし仮に『日本沈没』と同じ監督・森谷司郎、脚本・橋本忍で製作されていたら映画『さよならジュピター』は日本SF映画としてだけでなく日本SF界にとっても違った形で大きな位置をしめていたのではないだろうか…?と妄想するのはやはり邪道であろうか…?

【多次元な小松SF!】

 小松左京は万博に向けて動いていたあたりから色々な場所でしきりに「未来学」というものを提唱してきた。それは輝かしい理想郷の未来でも、また終末的未来でもなく純粋にあらゆる角度から学問として向き合おうというものだ。
またあるインタビューで『文明論としてのSF』として応じこう述べている。
『文明論を扱う文学としてのSFというものをやってみようと思った。科学の一応のデータを踏まえて、それから先は科学者、学者がやらないということを一応イマジネーションとかスピキュレーション(推測)とかで補って、これが実現したらどうなるのかという風に書くわけです。身近なものですから衝撃は近未来ものをきちんと書いたら大きいんです』

そして日本SF界には『小松SF』という言い方がある。主に宇宙を舞台に人類と文明の意義を問う本格SFということ指す。
小松のSF作品のある分野においては未来学から近未来SF、そして小松SF…そこから発見される美と知性の意味を追及し続けた。その視点は変幻自在で、例えるなら電波望遠鏡のマクロな世界と電子顕微鏡のミクロな世界をそれぞれ見ることができなおかつ、それを同じ視野におさめることを作中やってのけている。(何の本かは忘れてしまったが)小松左京自身『そういったものから人間の全体性において描きうる現代文学こそSFなのだ』と書いている。

そのうえで小松左京の作品をいくつか読むと小松左京特有の文明観、歴史観が一つの体系だって見えてくる。膨大な知識に裏打ちされたそれは人類史、文明史文化史、人類史と尺度を変え作品に昇華させられていることに驚かせられる。時にリアルに『日本沈没』や『復活の日』を描いたと思えば、『神への長い道』『結晶星団』『果てしなく流れの果てに』といったいわゆる小松SFを描いたりする。それらの作品の体系だって見た時、小松左京は人類の未来…といっても何千年先のずっと未来、人類はきっとあらゆる壁を乗り越え英知を集結させいずれは一つの共同体を作りあげるだろうというコスモポリタリズムの側面を思い描いていたようである。しかし一方で、時代も一文化圏も一文明圏をも凌駕しうる視点で物事を見ることができてもなお日本人という特殊な文化圏としか描くことしかできなかったナショナリストの側面も同時に持ち合わせていたことは大変興味深い。(コスモポリストなる側面とナショナリストなる側面の本来相反するをあわせ持つ小松左京作品についても検証
・考証したいところだがそれはまた別の機会に…)
本来なら小松左京の作品一つ一つを語りつくしたいところだが…それはそれぞれに独自の輝きを放ち、見る角度によってどれだけでも違った姿を見せる。ちっぽけな、本当にちっぽけなな人間が宇宙を知り、必死になって知的好奇心のままに眼差しを向けるがごとくにその広大なそれらの魅力はとてもじゃないがここでは語りつくせない…


小松左京が亡くなってから何冊かの追悼本が発売された。そこに書かれた小松左京と関わりある人々の言葉からわかることは小松左京はどこまでもヒューマニストだったということだ。そんなことをうかがいしれる東日本大震災後の毎日新聞のインタビューでコメントを最後に紹介してこの文章の最後に締めくくりたいと思う。

『今は大変な時期かもしれないけれど、この危機は必ず乗り越えられる。この先、日本は必ずユートピアを実現できると思う。日本と日本人を信じている』

日本と日本人を信じている…あたかも『日本沈没』に登場する田所博士が日本への慕情を綴っているかのごとく発っせられる言葉の裏には人間・小松左京という人間の深見が凝縮している。
小松左京という人間を知れば知るほどに
小松左京の作品を読めばよむほどに
この言葉の深みと温もりが染みわたっていく…
                                              (文中敬称略)

  おわりに・いろいろあるよいろいろね

 秋になり、東映作品は新番組『仮面ライダーウイザード』がスタートし、10月には『宇宙刑事ギャバン』劇場版が公開予定で『ゴーバスターズ』にもゲスト出演しましたね。『ウイザード』には手塚昌明監督『空へ』でデビューの高山宥子さんが刑事役で出演、10代で自衛官に刑事役をこなすとは凄い芸歴です。スタッフは『ゴーカイジャー』の宇都宮孝明チーフプロデューサーが登板ですが、『ゴーバスターズ』の脚本家とプロデューサーが『仮面ライダーオーズ』のメンバーなので、3年前から『ライダー』が秋スタートになった事でこれからは両シリーズで積極的にメインスタッフを入れ替えていく方針なのでしょうか。メインスタッフが固定していた『宇宙刑事』シリーズの頃とは違い、特撮ものをやろうというスタッフがそれだけ増えたのでしょう。ただ、東映劇場作品のラインナップに、両シリーズの劇場版がかなり増え、他にも『プリキュア』や『相棒』と、テレビ作品の映画化の割合が増え、一般作品が減っているのは果たしていい事なのかと思ってしまいますが。現在撮影所長の白倉伸一郎氏によれば「あと数年で(早ければ)平成ライダーを子ども時代に観た世代が親になる。そうなれば仮面ライダーシリーズは簡単には終わらなくなる。そこまで何とか乗り切りたい。」との事でした。ゴジラ、ウルトラ派としては羨ましいところです。

 ところで『ウルトラマンサーガ』DVD/ブルーレイが発売されました。豪華版の映像特典は盛り沢山ではある一方、オーディオコメンタリーがないのが何とも残念。4月に秋葉原で行われたメインスタッフのトークショーは意気込みを感じた作品の内容を反映してかなり盛り上がっただけに、どんな話が出るか聴きたかったです。

 千束北男作詞、冬木透作曲、天地総子歌による、宮城県仙台市復興支援チャリティソング『むすび丸 春夏秋冬』が、8月にリリースされました。『ダイゴロウ対ゴリアス』以来の顔合わせ(天地さんは女優としての出演でしたが)に注目ですが、宮城・仙台の四季を歌った歌詞に冬木先生らしい上品なメロディーが健在なのが嬉しいです。
 更にカップリング曲『ぐいぐい走れ!仙石線PartⅡ下り編』(藤公之助作詞)は、ちょっと切なくも力強い冬木メロディーが感涙ものの曲。ボーカルのザ・ワンダースは『ウルトラセブン』主題歌のジ・エコーズ本来の名前で、本曲は尾崎紀世彦さんの遺作となったそうです。
 Amazon、TSUTAYA、タワーレコードにて取り扱い、限定500枚との事なので気になる方はお早めに。

 さて、『緯度G大作戦2012秋』(通称『G祭』)は11月25日(日曜日)に開催になりました。トークショーのゲストは、いよいよ満を持して川北紘一監督が登場です。
他にもプログラムを準備中ですので、どうか御期待下さい!