2017年 第2号 Vol.179
 
 編集・構成 奥貫 晃

 
 発行人:今井 康了
 発行:日本特撮ファンクラブG
 

  はじめに
 
※本会報は『緯度G大作戦2017』で配布しました紙媒体に一部加筆修正したものです。
 
 去る12月3日に開催されました『緯度G大作戦2017』、反省点は多々ありましたが大きなトラブルもなく、御陰様で無事終了致しました。ご来場いただきました方々並びにスタッフ以外でご協力下さった方々には、この場を借りてお礼申しあげます。ありがとうございました。一日楽しい時間を過ごして頂けたなら幸いに存じます。お客様の年齢層が年々高まり、中高年向けイベントとの声も聞かれますが、我々が元気なうちは続けてゆきたいと思っている次第です。

  訃報

 さて、今年は二つの悲しいお知らせを耳にする事になってしまいました。

 [さようなら、土屋嘉男さん]

 2017年2月8日、肺癌のため御逝去。享年89歳。

 『ゴジラの逆襲』を初め、『地球防衛軍』、『宇宙大戦争』、『ガス人間第1号』、『怪獣大戦争』、『怪獣総進撃』等特撮作品に加え、『七人の侍』はじめ黒澤明監督作品や、東宝映画の様々なジャンルの作品でご活躍の後、'70年代以降はテレビドラマでご活躍されました。平成に入ってからは『ゴジラVSキングギドラ』が強く印象に残りました。  '80年代、高校生の頃、ゲストとして常連だった『徹子の部屋』で、詳細は失念してしまいましたが、当時盛んだった東宝特撮オールナイトのゲストに招かれた際に、ファンの熱心さに大変感銘を受けた旨のお話をされていたのを観て「ああ、この人はわかってくれる人だ」と感じたものでした。東宝特撮、東宝映画お馴染みの俳優さんで、SF、特撮ジャンルにはっきり理解を示して下さる方の存在は心強く思ったものです。

 後年、出版記念パーティー等で2度程ご一緒する機会に恵まれました。パーティーでは多くの若いファンとお話されておられた姿が印象に残っています。気さくなお人柄があったからだと思います。

 東宝特撮映画で主役級の役と言えば科学者や新聞記者といった堅いイメージがの役柄が多いですが、土屋さんが非凡だったのはそういった役よりは特撮映画は怪獣や宇宙人が主役なのだから、それに負けないアクの強い役を演じようと、代表作であるガス人間や顔の出ないミステリアンやX星人の役に取り組まれていた事でした。『ゴジラVSキングギドラ』クライマックス、全シリーズでも屈指の名場面と言って良いゴジラと真正面から向き合う新堂会長のシーンは、土屋さんが特撮作品で演じてきた一連の役の集大成だったと言えるでしょう。又、人類が月に到達する10年前に製作された『宇宙大戦争』では、月面を歩くシーンがあり恐らくこうではないかとイメージした演技が、後年アポロ宇宙船の月面初着陸の中継で、実際に宇宙飛行士の歩きが自身が演じたのとほぼ同じ歩きで、ホテルのロビーでテレビ中継を観ていた際、思わず「ブラボー!」と叫んだら、近くにいたアメリカ人が「ブラボー!」と返してきた、「でも意味は違うよな」、と嬉しそうに話されておりました。東宝特撮映画のクオリティはこうした俳優さん一人ひとりの力あっての事だと改めて思います。

慎んでご冥福をお祈り申し上げます。


 [さようなら、中島春雄さん]
 2017年8月7日、肺炎のため御逝去。享年88歳。

 最早読者の皆さんに説明の必要はないと思いますが、『ゴジラ』第1作のゴジラ役に始まり、以降もラドン、バラン、バラゴン等、『ゴジラ対ガイガン』に至るまで幾多の東宝怪獣を演じ、初期ウルトラシリーズでもネロンガ等何体かの怪獣を演じられました。それまで海外では怪獣や恐竜は人形をコマ撮りで動かして行く手法が主流だったのに対し、俳優が怪獣を型どった着ぐるみに入って演じる事で実際に怪獣がいるかのように見せてゆく、「着ぐるみ俳優」のポジションを確立された功績は、今後も語り継いでいかれるべきでしょう。

 思えば幼少時代、怪獣ものは怖くて観る事が出来なかった私が、怪獣に興味を持つきっかけとなったのは、「怪獣は中に人間が入って動かしている縫いぐるみ(着ぐるみ)」だという事を理解してからでした。やがてゴジラ初め怪獣に入っている俳優の第一人者が中島春雄さんという人物である事を知る事になったのです。パンフレットに記載された「ゴジラ 中島春雄」の名前は、本多猪四郎、円谷英二両監督と並び怪獣映画に関わる人物として子ども心に刻まれた、という方は私だけではないと思います。正に裏方でありスターでした。ゴジラ以外の怪獣も数多く演じられましたが、特に他の方からの指摘で気付かされた事が四つ足怪獣の演技です。本当にこんな生き物が居るんじゃないかと思わせるバラゴンやパゴスの歩き、ウルトラマンに投げ飛ばされ四肢をバタバタさせるネロンガの暴れっぷり(飯島敏宏監督は中島さんの俳優引退を大変惜しまれていました)は他の着ぐるみ俳優さんではちょっとお目に掛かれないもので、後年四つ足怪獣があまり見られなくなったのは中島さんクラスの演じ手が居なくなったからではないかというその方の指摘には頷けるものがありました。

 実は子どもの頃、親戚が住んでいた団地に中島さんも住んでいると存じていたのですが、畏れ多い気がして訪ねようとは思いませんでした。それだけに後年『緯度G大作戦'95』でゲストに来て下さり、直接お会い出来た時の感動は忘れられません。その後も『緯度G大作戦』は'97、'98年、更に20周年パーティーに来て下さり、盛り立てて下さいました。トークショーや打ち上げでは予科練時代、東宝俳優時代の貴重なお話を伺いましたが、その中でも特に印象に残っているお話は「これでお金貰っている」というプロ意識、厳しい撮影に耐えられたのは海軍時代の経験があったからというお話でした。引退後はボウリング場や麻雀荘、日曜大工センター等、東宝の関連会社で定年まで働かれておられましたが、同じく俳優から関連会社に移った方の多くは定年前に辞めてしまったそうで、俳優以外の仕事を続けてこられたのも海軍時代の経験があったからこそだそうです。そうしたお話をいつもにこやかにされていたお姿が印象に残ります。
 
 慎んでご冥福をお祈り申し上げます。

 Gスタッフからも追悼文が寄せられました。

  『追悼 中島春雄さん』  津田栄治

 数あるメイドインジャパンの中でも世界一有名なのは間違いなく「ゴジラ」です。そのゴジラのスーツアクターを一貫して務めた中島春雄さんこそ「ミスター・ゴジラ」の名に相応しい人物でしょう。 中島さんが何年にも渡りゴジラを演じることができたのはご自身の仕事に対するひたむきな姿勢と情熱があったからこそでしょう。そうでなければプロ中のプロである円谷英二監督に「最も信頼された俳優」であったわけがありません。
 私の手元には中島さんと一緒に写した写真が2枚ありますが、どちらの写真も肩に手をかけて満面の笑顔で写ってくれています。どんなファンにも気さくに対応してくれるフレンドリーさも中島さんの魅力の一つでした。 大部屋俳優でありながら世界一有名なキャラクターを演じ続けた中島さんこそ「世界一の縁の下の力持ち」と言えるでしょう。    合掌。

  『聞書・中島春雄前史』  鈴木聡司

 満十四歳の中島春雄少年が「海軍航空技術廠・工員養成所」に入所したのは、大東亜戦争も酣を迎えようとしていた昭和十八年(1943年)四月一日のことであった。
 当時、横須賀の浦郷海岸にあった航空技術廠とは、海軍航空機に関する基礎技術の研究から機体の開発、飛行試験までを統括して実施していた専門機関であった。そして中島少年の入所した工員養成所は、もともと昭和七年に「横須賀海軍工廠・職工教習所」としてスタートしていて、改称後、この二年前に横浜市磯子区六浦町(地理的には横須賀市との境界付近に当たる)に移設されたばかりだった。

 激化の一途を辿る航空消耗戦に対応するためであろう、このとき彼と一緒に採用された第十二期生の人数は、実に千六百名余に上っている。彼らに与えられた養成所と寄宿舎(内川寮の名で呼ばれていた)の建物は共に新設されて間もないため、近代的なデザインで設備も良好だったとされる。

 国民学校の高等科を卒業したばかりの年端のゆかぬ中島少年が、郷里である山形県酒田市をただ一人離れて海軍軍属の道へと進んだ経緯は自叙伝『怪獣人生』に詳しいので割愛するが、その決意の根幹には真に当時の男の子らしい、帝国海軍並びにヒコーキへの強い憧憬が存在していたのだった。

 そんなヒコーキ少年の新たな生活の場となった養成所の教育方法は、学科組と実習組とに分かれた二部制がとられていた。学科に使用される教科書は貸与品ながら全て新品であり、数学や英語(戦時下でありながら!)などの中等学校に準ずる授業が行われた。また、一方の実習にしても製図実習所や機械実習所といった設備が非常に充実していて、溶接、木工、銅工、仕上までのカリキュラムが組まれていた。

 勿論、一般の専門学校とは違って学科や実習の他に、やはりそこは帝国海軍の所管らしく、『生徒常訓』に記載された「躾け」が厳しく教え込まれることになるし、寮内にあってさえ生活の全てが軍隊式であった。これも全ては十代半ばの少年たちを、僅か十八ヵ月の教育期間中に一端の航空技術者に育て上げねばならない為だ。

 実際に彼らの一日は、朝は起床ラッパで叩き起こされて、広い練兵場での海軍体操から始まり、日常会話でも廊下の掃除は「デッキ掃除」、風呂当番は「バス当番」などと徹底した海軍用語の使用まで求められているのだ。『怪獣人生』でも少し触れられているが、海兵団と何ら変わらぬ鉄拳制裁やバッターによる罰直などは日常茶飯事のことであった。文武両道を掲げる軍の教育施設だけに銃剣術や柔道、それに毎週実施の一万m徒競走などの体育にも熱が入れられ、前掲した自叙伝の中で中島は、銃剣術大会で「五人抜き」の褒状を授与されたことを懐かしそうに回顧している。

 そんな彼らが青春の汗を流した武道場兼講堂には、当時の聯合艦隊司令長官であった山本五十六と横須賀鎮守府長官の古賀峯一の両海軍大将の書が掲げられていたという。しかし、第十二期生の入所から僅か二か月足らずの内にその山本の戦死が公表され、更に翌春には後を継いでGF長官となった古賀の殉職が伝えられるなど、内地にありながらも戦局の厳しさが日々垣間見られるようになっていく。

 こうして日本の敗色が濃くなる中で逞しく鍛え上げられた中島ら千六百余名の少年たちは、昭和十九年九月末日を以て教育期間を無事終了し、正式に海軍航空技術廠の一員となった。(前掲書で中島本人はこれを昭和十九年三月としているが、関係者の回顧によると一年半の教育期間が正しいようだ)

 中島少年の配属先は「発着機部」で、これはフロート付きの水上機を艦艇上から発進させる為のカタパルトや、航空母艦で運用される着艦拘束装置を主管する部門であった。

 同部は横須賀軍港をすぐ眼前に臨む追浜の横須賀海軍航空隊・水上機班の直ぐ隣に位置し、また同航空隊の陸上機班からも近かった。このため大のヒコーキ好きだった中島少年は、様々な第一線機や審査中の試作機を間近にする喜びを味わっている。飛行実験部に勤務する同期生のところへ暇を見ては遊びに行き、幸運にもそこで親しくなったテストパイロットに誘われて一式陸攻に同乗する機会を得ているし、また特筆すべきは液冷式の熱田エンジン二基を胴体部分に並列に搭載し、機体をオレンジ色に塗装した幻の高速偵察機・試製『景雲』の姿まで目撃しているのである。

 また眼前の海には砲術学校の練習艦を務めていた戦艦『山城』が錨を降ろしており(間もなくフィリピン方面に出撃して戦没してしまうが)、湾奥には潜水艦基地が置かれていた関係で訓練中の潜水艦がしばしば往復するのが見られた。 これが毎朝、軍艦旗掲揚が行われる午前八時になると、港湾内に錨泊する多数の艦艇で一斉に吹奏されるラッパが幾重にも反響し合い、たいへんな活況を呈したという。

 そんな軍港風景の中、前述したように中島少年は発着機部勤務となったことから、当時、横須賀海軍工廠・六号ドックで密かに建造が進められていた「第一一○号艦」の作業に加わることとなった。この一一○号艦とは即ち、後の航空母艦『信濃』のことである。

 もともと同艦は建造途中の『大和』級戦艦をベースにしているだけに当時としては世界最大を誇る空母であり、飛行甲板の大きさは実に二五六m×四○mにも及んだ。 その広大な甲板に多数のワイヤー圧縮ポンプを設置するため、空技廠の一員となったばかり中島少年は毎日のようにして一一○号艦に通うこととなったのだ。

 このワイヤー圧縮ポンプとは、航空機が着艦時にフックを引っ掛けて静止する為のワイヤーを瞬時に巻き取る際に用いる重要な装置である。同艦には最新の三式着艦制動装置五基(計十五索分)と同制止索三基が装備されることになっていたが、これは我が国の空母では最も多い装備数だった。 『信濃』は艦体の構造上、飛行甲板が強度甲板と防御甲板を兼ねた設計となっていた関係で、穿孔を行うにしても直径一〇㎝以下で百ヵ所以下しか穴開けが許されず、着艦制動装置の取り付け自体が難作業となった。そんな煩瑣な業務の中で中島は、夜勤時には艦上で夕食を済ませた後、アイランド(艦橋構造物)の上の防空指揮所(工員たちは露天艦橋と呼んでいた)に昇っては、そこに装備されている倍率二〇倍の大型双眼望遠鏡で月や星を眺めるのが唯一の息抜きだったとしている。

 この防空指揮所は広さにして畳十五畳敷き程もあり、航空学校の屋上に実物大模型まで作って実験を繰り返した末に完成された理想的な配備を誇っていた。中央部分にレーダーのアンテナが置かれ、その基部の円周いっぱいに実に三十六基もの双眼鏡が死角を生じぬように据え付けられていたのだ。これを覗き込んだ中島は、「月面のクレーターまでがハッキリ見えた」と後年語っているのだが、実はこれにはちょっとした仕掛けがあった。

 帝国海軍では戦争末期より大型双眼望遠鏡や潜水艦の潜望鏡に用いるレンズやプリズムに人造氷晶石を真空蒸着させる、いわゆる「コーティング」処理を導入するようになっていたのだ。

 この処理を実施したレンズでは光の透過率が飛躍的に良くなることから、夜間や薄暮時の見張り能力は格段に向上したとされており、そして最初にレンズ・コーティングされた光学兵器を装備した空母第一号こそ、中島も係わった『信濃』だとされているのである。勿論、養成所を出たばかりの一少年にしてみれば、自身の覗き込んだ双眼鏡にそんな大層な仕掛けが施されていようとは夢にも思わなかったに違いない。

 工期予定を四カ月も繰り上げて十月十五日を完成の目途とする突貫作業が続けられる中、同艦では近く予定されていた進水式に向けてのドックへの注水作業の不手際から大きな事故が起きたことは戦記物などにも詳しいし、また中島本人もその様子を後年になって知人に宛てた書簡の中で綴っている。

 結局、その事故で十月八日に予定されていた進水式は延期となり、当日は破損部分の修復作業が続く中で米内海軍大臣臨席による命名式だけが挙行された。この日をもって第一一〇号艦は正式に軍艦『信濃』となったことになるのだが、中島本人の記憶に拠れば、まだ当時は本当の艦名は知らされておらず、工員たちの間では相変わらず「ヒャクジュー」の通り名で呼ばれていたと云う。

 十月二十三日、ドックの前壁にぶつけて潰した球状艦首の修理も何とか終わり、船渠から曳き出された『信濃』は横須賀軍港・第二区外港に前後浮標係留されるようになるが、戦局は更に悪化し、間もなく頭上に敵B29の飛来を仰ぐ事態となった。

 そんな中、十一月十一日より同艦の公試運転が東京湾内で行われ、同時に実施される航空機の発着試験に立ち会うべく、中島少年も栄えある『信濃』乗り込みの機会を得ている。

 当日の発着試験には零戦や『天山』などの従来の機体に加えて、橙色に塗装された『紫電改』の艦上型や『流星』といった試作中の新型機が参加している。中島も一部分ながら設置作業に携わった三式着艦制動装置は、元々こうした大型・高速化した次世代艦上機の運用に対応したものであったのだ。中でも試製『流星』などは、着艦テストの際にフックをワイヤーに引っ掛け損ねてしまい、思わずヒヤリとさせられる瞬間もあった様だ。

 こうした一連の作業を飛行甲板脇のポケットから興味深く眺めた中島だったが、飛行機が発着する度に甲板から巻き起こる白っぽい砂埃には全く閉口させられたことを、同じ知人宛ての書簡の中で述べている。これは『信濃』の場合、当初は鋼板製の飛行甲板の上面に滑り止めとしてラテックスゴムを張る計画だったものが、物資欠乏による代用品として鋸屑(横文字の大好きな海軍では、これを戦時下であっても「ソー・ダスト」と呼んでいた)を混入させたセメントを用いた為に、こうした弊害が発生したのだ。鋸屑混じりの砂塵が制動装置の機構内に入り込むと、大きな故障が発生する恐れさえあったとされる。

 同じ日、一連の公試運転の為に木更津~本牧間を行ったり来たりを繰り返す『信濃』を目標にして、『震洋』と呼ばれるモーターボート十数隻が襲撃演習を掛けてくるのを中島少年は目撃している。これは横須賀市田浦で訓練中の特攻艇部隊(間もなく長崎県川棚に移動となる)によるものであった。また午後三時過ぎには、石川島造船所で完成を見たばかりの戦時標準船が一隻、『信濃』の右舷を航過していくのを中島は眺めている筈だ。この戦標船には同造船所所属の荒川浩技師が試運転立ち合いのために乗り込んでいて、偶々行き会った名も知らぬ超大型空母の雄姿をカメラに収めているのである。

 実のところ日本側の手による『信濃』の写真は、このとき撮影された一枚が現存するのみとされているのだが、逆光気味の状態でフィルムに捉えられた同艦の飛行甲板上に点在する多数の公試員の中の一人に後の怪獣俳優・中島春雄が居ることを思うと、我々は何とも不思議な感慨を抱かざるを得ない。 かくして二日間に亘った公試運転を無事に済ませた『信濃』は、横須賀軍港奥の三番浮標に係留されたまま同月十九日に軍艦引渡式を迎えるが、巷間にも良く知られている通り、実質的には水密試験も満足に終わらぬ未完成の状態にあった。 同月二十五日、引き続き発着機部に勤務していた中島少年は、眼前の港湾部にレイテ沖海戦を辛くも生き延びた戦艦『長門』が入ってくるのを目撃している。
 
「爆撃で煙突の辺りが滅茶苦茶になっていた」 とは中島本人からの直聞であるが、実のところ筆者の祖父は戦時下を海軍軍人として過ごし、当の『長門』に乗り組んでいたのだから人の世の偶然とは面白く出来ている。

 また、このとき『長門』を横須賀まで護送してきた三隻の駆逐艦には、呉軍港までの帰路に当たって重大な使命が課せられることになった。呉へ避退することとなった『信濃』の護衛である。海軍中央は、本土上空に頻々と飛来し始めていたB29による空襲を恐れて、虎の子の『信濃』を瀬戸内海に隠すことに思い至ったのだ。未だに完成しない艤装工事も呉工廠で行う計画で、急遽『信濃』の都落ちが実施に移されようとしていたのである。

一方、一一〇号艦の仕事から解放された中島少年も又、このころ大きな人生の転機を迎えようとしていた。上司である遠藤中尉から、「中島、お前は軍属より軍人になったらどうか?」

 と勧められ、加えて自身も海軍パイロットを熱望していたこともあったため、わざわざ三重県津市まで出向いて予科練を受験することとなったのだ。この時期には養成所出身の同期生たちも、引き続き軍属である工員として勤務する者や、海軍軍人として工作科予備補修生に進む者など夫々の進路に分かれようとしていたのだった。

 やがて念願の合格通知が届けられ、年が明けるや中島は三重海軍航空隊・奈良分遣隊に向かうこととなった。だが、その間の昭和十九年十一月二十九日、彼が心血を注いだ第一一〇号艦こと空母『信濃』は、呉への回航途中に和歌山県潮岬沖で米軍潜水艦の手に掛かり、敢え無い最期を遂げていたのである。

 竣工後わずか十日という短命に終わった史上最大の航空母艦の悲劇は、戦史や戦記の類いに詳しい。だが、ここに余り触れられることの少ない、不可思議な事実が残っている。

 『信濃』が魚雷攻撃を受ける三十分ほど前の同日午前二時四十五分、同艦の防空指揮所の見張員は敵潜発見を報じているのだ。これは当の『信濃』よりもずっと敵潜に近い位置に占位していた味方駆逐艦に先立っての目視発見なのである。

 このとき『信濃』を護衛していたのは歴戦の第一七駆逐隊で、本来であるならば、その乗組員の夜間見張能力は新造空母を遥に凌駕していた筈だった。そして、熟練の駆逐艦乗りがこのとき敵発見に後れを取った理由として、多くの戦史研究者たちは、「排水量七万トンの大型空母と僅か二千トンの駆逐艦では、見張所の高さに大きな差が在るためだろう」としているのだが、筆者にはそれが前述したコーティング処理の施されたレンズの性能差にあるように思われてならないのである。先にも触れたように、第一七駆逐隊はレイテ作戦から『長門』を守って内地に帰投したばかりで、まだ同種の処理が施された光学兵器は未装備と見るのが自然であるからだ。

 現在のところ『信濃』沈没に関して、この点に論及した戦史研究者の意見は全く聞いたことが無い。しかし、そうした一種ミステリー的な戦史の流れの中で我々の良く知る中島春雄が、問題の焦点となる双眼望遠鏡で月や星を眺めては楽しんでいた偶然があったことは、歴史の一齣としてしっかりと書き留めておかねばならぬだろう。

 その中島少年が『信濃』の沈没を知らされぬまま、希望に胸を膨らませて向かった三重海軍航空隊・奈良分遣隊の宿舎は、その実、天理教の教団施設をそっくり徴用したものに過ぎず、水泳を必須とする海軍の教育施設であるのにプールすら無かったとされる。同分遣隊は間もなく独立して奈良海軍航空隊となるのだけれど、航空隊とは名ばかりでヒコーキなど一機も無く、「横須賀がうらやしかった」と中島本人が回顧するような有様だった。

 それでも教班長が「戦艦大和の生き残り」を自称する下士官で、他班とは違って大変優しい人物だったため罰直などの面では助けられたとしている。

 しばらくして中島少年の所属する第六〇分隊全員が姫路航空基地に移動となったが、その基地にしてもヒコーキの影さえ無く、対戦車肉薄攻撃の訓練に終始する日々を送ることとなった。同飛行場は兵庫県加西郡法華口の片田舎に置かれていて、周囲は静かな高原に囲まれており、戦争など別世界の出来事に感じられてしまうような佇まいだったという。

ただ兵舎にはノミが多くて閉口させられ、夜は眠れぬ程であった。そこで中島たちが実施したのが一風変わった駆除作戦だった。 デッキと呼ばれる兵舎の板張りの床の隙間のあちこちに箸を突き立てて、消防ホースから一斉に放水を行うと、水に追われたノミは皆、その箸に登ろうとする。そこで兵舎外に焚火を起こしておき、蝟集するノミを箸ごと次々に火中に投じて焼き捨てたのである。この作戦はまんまと図に当たり、以来、害虫の跳梁跋扈に悩まされていた練習生たちは枕を高くして寝られるようになった。

 こうして日々傾いていく戦局を尻目に彼らが聊か牧歌的な時間を過ごしている内に、やがて八月十五日がやってきた。この玉音放送から復員、進駐軍のトラック運転手を経て東宝入社までの顛末も又、中島が自叙伝中に詳しく語っているので割愛する。

 昭和二十八年秋、満二十四歳の中島青年は再び航空母艦の飛行甲板に立っていた。
と云ってもそれは実際に海に浮かんだ艨艟などでは無く、大井競馬場構内の地面の上にベニヤ板や角材を使って建てられた実寸大のオープンセットに過ぎなかった。これは東宝の戦記大作『太平洋の鷲』を撮影するためのもので、本物を良く知る彼にしてみれば、かつて慣れ親しんだ一一〇号艦の、鋼鉄とセメントで組み上げられたあの重厚さとは比ぶるべくもなかったろう。

 このとき俳優・中島春雄が演じたのは、ミッドウェイ海戦で被爆炎上する『赤城』艦上で火達磨になる搭乗員の役どころであった。我が国映画界最初の「ファイヤー・スタント」とされるものである。

 そんなケレン師染みた活躍で注目を集めたことが切掛けとなって、翌年、中島青年は運命的な作品と出会うことになった。云わずと知れた『ゴジラ』第一作である。世界の映画界でも稀な「スーツ・アクター」としての彼の活躍は、この瞬間から始まったのだ。

 中島が「観客には顔の見えない主役」を演じた同作品が封切られたのは昭和二十九年十一月三日のことで、彼が一一〇号艦に別れを告げてから十年の月日が過ぎようとしていた。竣工僅か十日にして沈んだ世界最大の空母『信濃』こそ、自身の青春が染み込んだ第一一〇号艦だったことは終戦後間もなくして、進駐軍による「真相はこうだ!」式のプロパガンダ放送で教えられたと云う。彼も又、いわゆる戦中派世代に共通する深い挫折感と敗北感とに塗れて、戦後の混乱期を生き抜いてゆかねばならなかったのだ。

 ひどく牽強付会的な見方をすると、大艦巨砲の全盛期から大きく遅れて誕生し、その巨体を持て余すまま儚く消え去った『信濃』の運命は、太古のジュラ紀ではなく原水爆の世に生れ落ち、それ以上の力を持つ科学兵器の前に死滅したゴジラと何処か通じるものがあるように思えてくる。 そして「ヒャクジュー」の最期を聞き知ったときの中島の心象風景にも、もしかすると後の映画『ゴジラ』のラストカットに良く似た、滅んだ巨獣を呑み込んで揺蕩い続ける黒々とした海の姿が映し出されていたのかも知れない。

 最後になりますが、中島春雄さんのご冥福を心よりお祈りいたします。 

  『トチオンガーセブン』映画化

 前号で触れました、新潟局で放映された特撮番組『炎の天狐トチオンガーセブン』と『霊魔の街』各6話分の放映が無事終了しました。そしてこの度両作がソフト化、他にもネット配信や再放送、『霊魔』は山形で地上波放映と視聴の機会が広まってきました。更に『トチオンガー』は映画化が決定と新たな展開があるようです。そんな中個人的に両作品を視聴する機会に恵まれました。

 『トチオンガー』製作者で主演も務めた星知弘さんは特撮ファンであり、新しいキャラクターが現れないヒーロー作品の現状に疑問を感じていた折、'11年『電人ザボーガー』映画に触発され'15年よりトチオンガーセブンの着ぐるみを製作、幼稚園等の施設を回って活動を始めていたところ、今回のテレビ化に至ったそうです。こういったアマチュアによる所謂「ご当地ヒーロー」は数多く存在し、テレビ等映像化された作品も幾つかありますが、設定、デザイン等はスーパー戦隊や平成ライダーの影響を受けたと思われるものが多い中、目を引かれたのは『ライオン丸』、『タイガーセブン』に代表されるかつてのピープロ動物モチーフヒーローの流れを汲んでいる処でした。実は個人的には『タイガーセブン』、『ザボーガー』はそれほど観ていた訳ではないのですが、21世紀の今、ピープロ路線で行く心意気にはリアルタイムで知っている身として興味を引かされるものがあったのです。製作の「ビー・プロダクション」表記に、サブタイトルテロップの書体に思わずニンマリさせられてしまいましたが、闘う事に悩む主人公や助けた相手に化け物呼ばわりされるヒーロー、ペットの投棄といった社会問題を扱った悲劇的なストーリー等、内容面でもピープロ作品を意識したものとなっています。

 星さんの本業は油揚げ職人で、狐モチーフは油揚げに因んだもの、変身は二つの油揚げ(栃尾の油揚げは通常のものより分厚くて長い)を両肩に装着するという一見ギャグのような設定なのですが、プロの役者ではなく、40代の年齢ながら変身シーンを初め熱演しており、こういう処で心を掴まれるというか、物語に入ってゆけました。

 そして、まついえつこさんの音楽が贔屓目なしにしてもカッコいい!劇中のメインテーマは主題歌とは別メロなのですが、『タイガーセブン』主題歌はじめ菊池俊輔氏を彷彿とさせるメロディーは是非聴いて欲しいです。作詞、作曲「十手五郎」名義による主題歌(OP、ED)も'70年代テイスト全開で、星さんは主題歌の作詞作曲から造形、変身後の着ぐるみ演技と八面六臂の活躍をされており、こうしたアマチュア発のキャラクター活動は作り手の情熱に支えられている事を実感させられます。
 
 ただ、こうした'70年代テイストに徹する中、ちょっと気になったのは荒木憲司監督がCGを使わない事にこだわっていた事でした。確かに「手作り感」はピープロ作品のみならず昭和特撮の魅力の一つではあるのですが、その一方ピープロが得意としていた作画合成、アニメ合成といった実写の画面に絵をはめ込む手法は、手描きかデジタルの違いこそあれ現在のCGに通じる画作りで、もし昭和40年代にCGがあったらピープロは案外積極的に取り入れていたのではと思うのです。実際に『タイガーセブン』助監督を経て『ザボーガー』で監督デビューされた村石宏實監督は、後の『ウルトラマンティガ』で思いきったCGの使い方をされており、これはピープロでの経験が少なからず影響しているように思います。ピープロを目指すならむしろCGはアリではという気もします。
 
 何にせよアマチュア発のキャラクターが地上波の番組として放映されるのは大変な事で、地元新潟では『霊魔』共々かなりの反響があったようです。映画化の後は第2シーズンへの展開を期待したいところです。これで「自分ならこう作る」と、新たな作り手によるキャラクターが出てくると新しい流れが出てくる可能性があるのですが。

  いろいろあるよ、いろいろね

 ・『ブレイブストーム』観てきました。シルバー仮面、レッドバロンの2大ヒーローをどう捌くかが気になっていましたが、80分と意外に短い時間の中で、アクションに徹した作りで、なおかつグッと来るシーンがもあったりで、中々楽しめました。2Dの上野東宝シネマズで観たのですが、4Dで上映の劇場が多い事から考えて、アトラクションムービー的な作品を目指していたようです。それぞれオリジナルの基本設定は踏襲しつつ、シルバー仮面は強化服の設定で、途中でヴァージョンアップするものの変身ではなく、春日光二は全編着用したまま、レッドバロンの必殺武器はエレクトリッガーですが紅健は武器名を口にしないのが意外で、リアリティを追求した結果とは思いますが、オリジナルの設定に沿って武器は音声入力にするとか、何とか出来なかったのかと気になりました。物語自体はストレートなヒーロードラマなので、こうしたケレン味はあっていいのではと思います(この辺は実写『ポリマー』が上手かったと思いますが、偶然か本作との共通点が2つばかりあったりします)。また、レッドバロンの石田サウンドによる特徴的な効果音も要所でいいから使って欲しかったところでした。本作の音響は海外のスタッフが担当しており、監督、脚本、プロデューサーを兼ねた岡部淳也氏はこだわりどころが違うのでしょう。気になった箇所はいくつあったものの、全体的に楽しめたのは俳優陣がそれぞれ役柄と合っている印象で好演していたのが大きかったと思います(春日光一役が春日光一という名前の俳優とは!)。それから、チラッと出てきたあのキャラクターはもし次回作があれば登場するのか、だとすればどんな解釈の新設定なのか?考えてしまいました。リメイク作品は数あれど、リメイクを担った作り手はオリジナルの作り手とは拘る部分が当然違う訳で、それが我々観る側の求めるものと合うかどうかが難しい処であり面白い処だと実感させられた作品でした。私が観た回は遅い時間だったので客層は大人ばかりでしたが、子どもの層に人気が出る事を願うばかりです。

 ・次の週には、『GODILLA 怪獣惑星』を観てきました。アニメーションという事で、積極的に観ようという感じではなかったというのが正直なところでしたが、
この先国内実写ゴジラ新作を製作するにせよ、一度こうした形式の作品を出して行く事も大事なのかと思います。上映劇場はそれ程大々的ではなく(配給は本社ではなく映像事業部)、私が観た劇場の客入りは2/3ぐらいで、東宝としては実験作の位置付けなのでしょう。これまで劇中で検討される事はあっても、当然絶対的タブーとされてきたゴジラに対する核兵器の使用が実行され、更に歴代最大最強のゴジラによって人類がここまで追い詰められる世界観に加え、ゴジラ自体の設定は植物、樹木が超進化したという『シン・ゴジラ』以上の新解釈と、アニメでしか描けないゴジラ、これまでにはない事をやろうという姿勢は感じられました。今思うと『ミレニアム』シリーズもスタート前はこれぐらい一作毎に作風を変えていきたかったのではないかと思います。

実際の作品は中盤の展開が絵面が単調なせいか退屈に感じた事は否めません。ストーリー自体はアニメならアリだと思いましたが、もっと弾けたところがあっても良かったかと思います(そういえば主演の宮野真守氏のプロフィールにウルトラマンゼロが無いのは何故?)。ラストで意外な事が判り、3部作の中盤となる次回に繋げているので、メカゴジラの登場を含め今後の展開を見守っていきたいところです。

 ・実は先月、沖縄へ旅行に行って参りました。そして国産特撮ファン、ウルトラファンとしてここは行かねばと思っていた、金城哲夫さんの御実家である「松風苑」を訪れたのです。場所は那覇市中心部から車で15分程の住宅街の中で、到着すると実弟の和夫さんの案内で離れの2階にある書斎だった部屋、現在は「金城哲夫資料館」に入りました。4畳半ぐらいの部屋が2つあり、机の上にはウルトラマンや怪獣の人形が並べられていた他、ポスターや出版物、サイン寄せ書きが飾られておりましたが、金城哲夫さんが亡くなられた時の事を思うとこみ上げてくるものがありました。和夫さんによると私と同世代、50代ぐらいの人がよく訪れているとの事でした。サイン色紙の中には『ウルトラマンジード』出演者のサインがあり、「おぉっ」と思っていたら、なんとテレビシリーズ終盤と劇場版がウルトラシリーズ初の沖縄ロケとの情報が入ってきました。これは楽しみです。時間の都合で余りじっくり見る事が出来なかったので、機会あればもう一度行きたいですし、沖縄にもし旅行される方には行ってみる事をお薦めします。

   おわりに

 今年ももう年末となりました。既に書きましたように悲しいお知らせがいくつかありました。しかし一方、新作に関しては昨年の『シン・ゴジラ』級は出なかったものの、『トチオンガーセブン』、『ブレイブストーム』と'70年代育ちには注目の作品が出た事が個人的には収穫でした。来年は以前ショートフィルムアニメが作られた『グリッドマン』新作がアニメで製作されるそうです(オリジナルから25年ぶり)が、特撮関係ではウルトラ、ライダー、戦隊シリーズが継続、『トチオンガー』映画化の他には果たしてどんな作品が出てくるか…と思っていたら何と!『アイゼンボーグ』の新作映像がサウジアラビアとの合作で製作されているそうで、世の中何が起こるか判らないものだと実感させられました。良い事、楽しい事ならドンドン起きて欲しいものです。

 それでは、どうか皆さん、良いお年を。来年もよろしくお願いします。