特撮映画の雑記帳 第一回
苗字あれこれ
鈴木聡司
・鬼とオニの話
普段から情報に疎いためなのかもしれませんが、つい先日、何気なく家電量販店のDVD売り場を眺めていたら、長谷川一夫主演の大映映画『大江山酒天童子』が発売されているのを見つけ、些か面喰らいました。とにかく近年の特撮関係の映像ソフトの充実振りには全く眼を見張るものがあります。本家である東宝の怪獣・SF路線ばかりか、特撮を用いた時代劇や戦記ものにいたるまで、それも今回のような大映や新東宝のマイナー作品などが当たり前のような顔で商品化され、その一方で昔馴染みの名画座が相次いで姿を消していくイヤハヤ、全く奇妙な世の中になったものです。
とは云うものの実はこの『大江山酒天童子』、私にとって二十年ばかり昔に大井武蔵野館で褪色してズタボロの十六ミリ版を一度眼にして以来の疎遠になっていましたから、今度小遣いが貯まったら早速購入してやろうなどと算段しているところなのです。
本作品は平安期の武士・源頼光による鬼退治を主題とした能の名曲を下敷きにしており、巨大な土蜘蛛や黒牛の化け物が跋扈する様を特撮で描いた、まさに通俗娯楽時代劇のお手本といった内容です。鬼退治の話は桃太郎や一寸法師など我が国の古典や口承文学に数多見られますが、劇映画としてキチンと映像化されているものは少ないのではないでしょうか?
さて、こうした英雄による「鬼退治」譚なのですが、調べてみるとイロイロと興味深いことが解ってきます。民俗学なる学問によれば、山奥に拠って勢力を誇り、暴虐を欲しいままにした「鬼」とは、時の中央政権と激しく争った敵対勢力、しかも鉄や銅などの鉱物資源地帯に根付いた産鉄集団に付与されたキャラクターであるとされるそうです。(例えば映画『もののけ姫』で描かれた、決して天皇の権威に従わなかったタタラ場の人々のようなものだったのかも知れません)
東北や岡山など、古代に製鉄で栄えた土地には必ず鬼の伝説が残ると云われます。事実、「鬼に金棒」なんて言葉がある様に昔から両者は不可分の間柄であり、桃太郎や一寸法師のお伽噺は、いずれも英雄(つまり中央政権の尖兵)による産鉄集団の征服を暗喩していることになるのでしょう。この『大江山酒天童子』も舞台は平安時代ですが、原型となった説話の成立は更に何百年か遡ると云われています。
では何故そうした産鉄者が「鬼」としてシンボライズされるようになったのか?そもそも鬼とは一体何者なのでしょう?
鬼と聞けば虎皮のパンツを履き、頭に角を生やした姿が脳裏に浮かびます。ドリフの雷様のコントや某アルバイト誌のCMでよく眼にするあの姿です。しかし本来、日本語の「オニ」と漢語の「鬼(クィ)」とは意味が異なっていました。一説によれば日本語のオニの語源は「オリ」、つまり気の流れの澱んだ不浄な場所に生ずる化け物の総称を指し、必ずしもああした姿をしている訳ではなかった様なのです。(どうして現在の姿を与えられたかについては後述します)
一方、漢語の「鬼」とは「鬼籍に入る」なんて言葉があるように死者もしくは死霊そのものを意味しており、必ずしも赤鬼や青鬼を示すものではありません。元来この「鬼」という文字の成り立ちは、
一方、漢語の「鬼」とは「鬼籍に入る」なんて言葉があるように
者もしくは死霊そのものを意味しており、必ずしも赤鬼や青鬼を示すものではありません。元来この「鬼」という文字の成り立ちは、
「仮面を被った人の姿」を現しているとされます。これは古代中国で葬式に際して死者に仮面を着けさせた風習があったためで、上古の時代においては、死者と生者の区別が明確でないことを非常に嫌った様です。そうした曖昧な境界に生じるのが魑魅魍魎であるとされ、我が国でも昼と夜の境界(つまりトワイライトゾーン)である時間帯を「逢魔ヶ刻」と呼んで特に禁忌したのと根は一つだった訳です。
さて、この会葬時に被せるデスマスクですが、当初は我が国の獅子舞のカシラに似たものを使っていたのですが、これが時代が下がるに従って簡略化され、まじないの刺青や死化粧に変わっていきました。これは私の勝手な想像ですが、昔のヒュードロ式の幽霊が額に付けている三角形の布(寸帽子)もその名残りではないかと思っています。仄聞するところでは、あの三角形は鱗を象徴するもので、人間には鱗など生えませんから、寸帽子を付けた者は最早や「ヒトではない」ことを表現しているとされるのです。そして強い恨みや無念を抱いて死んだ者の場合、この鱗が硬質化して角に変わり、夜叉や般若、そしてオニへと化すとされるのです。ちなみにヒュードロ式の幽霊が舌を出し両手を前にダラリと下げているのは首吊り自殺者の霊(支那怪談で云う縊死鬼)を表しています。古来、復讐の叶わぬ弱者は首を括って死ぬのが相場とされていたためにスタンダードとなった、幽霊の定番スタイルといったところなのでしょう。
さて、デスマスクが簡略化されて刺青や死化粧に変わったと書きましたが、これを「鬼形」と呼びます。「形」とは古語で云う刺青や、模様を書き写した図柄を指します。『新撰姓氏録』に言わせると日本人の持つ苗字の大半は、その一族の居住地または職業に基づくとされますから、鬼形(キガタ)なる姓を持つ方の御先祖は、そうした葬祭を司ってきた呪術者の出身だったことになるのかもしれません。
また、北九州に宗像(ムナカタ)なる地名がありますが、これも同地域に古代、漁労を生業とする海人族が多く暮らしていて、素潜りで漁をする彼ら(確か魏志倭人伝にも出てきますね)がサメやシャチなどに襲われぬ為のまじないとして胸部に施した刺青、つまり「胸形」がその語源であるとされます。『ウルトラQザ・ムービー』の浜野記者と下戸で有名なGUTSのリーダーが実は同じ海人一族だったなんて、ちょっとオモシロイ組み合わせに思えてなりません。そして、この宗像(胸形)族とは別に、やはり海禽封じの刺青を背中に施した海人一族がいて、これを「背形」ではなく「尾形」一族と呼びます。云うまでもなく、潜水具一つで初代ゴジラに挑んだ南海サルベージの青年所長と同姓です。或いは圧倒的な博覧強記で知られる香山滋先生のことですから、それと知って尾形姓を隠し味に用いたなんてコトも想像されますが、果たしてどんなものでしょうか?
ここで話は変わりますが、以前上梓した拙著『小説円谷英二 天に向かって翔たけ』の中で、円谷姓はその詳しい出自は不明ながら常陸国久慈郡下金沢(現在の茨城県、名勝・袋田の滝の近くにあたります)に興ったと書きました。ところが最近、これを覆すかも知れない事実を見つけてしまったのです。
円谷監督の母方の三代前の先祖に亜欧堂田善なる絵描きがおります。やはり同著に書きましたが、この田善の家系は更に五代前、十七世紀始めの頃に永田右膳正なる人物が須賀川に定住したのが始まりとされています。永田右膳正の出自は伊勢国渡会郡永田村の神官だったとされますが、その同じ度会郡に現在では絶えてしまった地名なのですが、「積良」と書いて「つぶら」もしくは「つむら」と読ませる土地が実在していたのです。先の『新撰姓氏録』ではありませんが、日本人の姓氏が出身地名と強い係りを有している事実からみれば、無視出来ない発見です。この周辺に関しては現在追従中であり、結果はいずれ皆様に御報告したいと考えております。
さて、先年物故された鷺巣富雄先生によると、
「サギスにツムラヤとはお互い変わった苗字だね」
と円谷監督と二人して笑いあったとのことですが、実際、黄金期の円谷組のスタッフには安丸だとか仲代(ナカシロ)などといった一風変わった苗字の方々が多かったように見受けられます。その中でも群を抜いて稀な苗字をされていたのが伊福部昭先生だったのではないでしょうか。
伊福部姓の始まりにも諸説があって、その昔、宮中の音曲を担当した「笛吹き部」であるとか、やはり宮中の膳部(調理場)で煮炊きを賄った「火吹き部」であるとか云います。これは古い日本語で「福」と「吹く」は同義とされているためで、中でも笛吹き部説こそ先生にとって最も相応しい出自の様に感じられるのですが、これはどうやら違うようです。と云いますのは、詳しく見てみるとこの「伊福部」姓は、前掲した鬼と鉄の係わり合いまでも含んだ実に壮大な故事来歴を有していたからなのです。
・風の神、福の神
遅ればせながらの書き出しになりますが、今年二月八日、伊福部先生が薨じられたとの悲報には私も皆様同様に大きな衝撃と悲しみを抱いております。私の場合、昨年十二月頃より先生の御先祖であられる山陰地方の古代伊福部氏について興味を抱き、種々の文献を当たり始めたその矢先のことでした。そして今からお話するのは、その何ヶ月かの間に知り得た伊福部先生と八岐大蛇(ヤマタノオロチ)との、ちょっと因縁めいた物語です。
そもそも話の発端は昨年暮、六本木の某シネコンで稲垣浩監督の特集上映が組まれたことにあります。生誕百周年ということで稲垣監督の代表作十本ばかりが週代わりで上映されると聞き、もう私などは毎週の様に同劇場に足を運ぶこととなりました。前述の通り、現在のDVDソフトの充実振りと反比例して東京近辺の所謂「名画座」は全滅に瀕しており、今回の様に映画黄金期の作品をスクリーンで纏めて眼にする機会など滅多にないと考えられたからです。
中でも「最大の目玉」と自分勝手に決め込んでいたのが『日本誕生』の完全版上映でした。(勿論、全長版と称されるLDもDVDも所持しています。)しかし特撮ファン暦二十余年にして初めて大スクリーンでオリジナル版を見ることが叶うのだと朝早くからいそいそと出掛けたのですが、考えが甘すぎました。大枚一八○○円もの料金を払って入場したところ、何とこれが昔からオールナイト上映会などで飽きる程眼にしてきた二時間強の短縮版だったのです。
先に配られた劇場チラシには上映時間182分と明記されていたにも係らずこの有様で、テケツ(入場券売り場)ではなく場内の廊下に「完全版のフィルムはDVD制作後に破棄されたため現存しません」とのヒドク簡単なお詫びが掲示されているのを目の当たりにして、もう怒る気力も萎え果てたのが本当のところでした。
番組に釣られて見に行く客に映画愛はあっても劇場側にそれが無かったということなのでしょう。同劇場では戦後の三船敏郎版『無法松の一生』の上映時にも「1943年度作品」と明らかに間違った注記入りの掲示を劇場入り口に掲げて得々としていた前科(見る側はどっちの作品をやるんだよ?と混乱させられるワケです)がありました。似たようなことは平塚の某シネコンでも更に一年前の『ゴジラ ファイナルウォーズ』公開直前に『キングコング対ゴジラ』のチャンピオン祭版を完全版と称して上映し、ワザワザ片道2時間掛けて見に行った私ばかりが馬鹿を見た、苦い経験がありました。結局はシネコン風情が「名作の特集上映」なんて銘打っても所詮は付け焼刃に過ぎず、昔の大井武蔵野館や文芸地下のような訳にはイカないのです。
脇に逸れた話を元の『日本誕生』に戻しますが、兎も角、ノーカット版じゃないことに落胆し、かなりダレた気分で作品を見ていたときのことでした。場面はスサノオノミコトによるヤマタノオロチ退治、前半の見せ場の一つです。そのとき、ふと私の脳裏にちょっとした疑問が過ぎりました。
「スサノオに倒されたオロチの尻尾から剣が出てくるのはどうしてだっけ?」
正直ウンザリして折角の映画を堪能出来なくなっていた私は、以前何かの本で読んだことのあるその理由を思い出すことにばかりに意識を集中しました。
そう、天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)もしくは草薙剣(クサナギノツルギ)と呼ばれるその宝剣は、元々アマテラスオオミカミの持ち物だったのです。映画にもあるようにアマテラスはスサノオの暴虐を恐れて天の岩戸に逃げ込むのですが、そのとき慌てて大事な宝剣を取り落としてしまい、それが神々の暮らす高天原から下界である我が国の伊吹山付近に落下して紛失したとされていたのです。古来、蛇の尻尾には霊力が宿るとされ、オロチの語源は「尾乃霊」(霊は古語でチと読みます)だと聞きますから、八岐大蛇の尾部から紛失した霊剣が出てくるのは古代では決して突飛な発想ではないようです。
この伊吹山は、関ヶ原の古戦場を見下ろすように屹立する近畿地方を代表する名山の一つですが、そこに宝剣が落ちたことに私は何か引っかかるものを感じました。『日本誕生』では主人公の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は大伴一族との政争に巻き込まれて命を落としたように描かれていますが、古事記や日本書紀、いわゆる記紀では、ヤマトタケルはこの伊吹山の荒ぶる神を討伐に行って逆に致命傷を負ったとされるからです。
昔話の桃太郎や一寸法師の鬼退治が、糊塗された他部族征服を暗喩していると先に書きましたが、景行天皇の世、西に東に賊軍を討伐したとされる日本武尊もまた、大和政権による侵略軍の尖兵たちを一人の英雄像としてキャラクター化したものと考えられます。勿論これと同様に、殲滅すべき敵軍も「荒ぶる神」といった一個の個性が与えられる訳です。では、当代比類なき英雄とされたヤマトタケルに致命傷を与えたほどの敵対勢力の正体とは一体何なのでしょうか?
古事記では伊吹山の神は白い体毛の「シシガミ」だとされます。シシとは四肢、つまり古語で云う四ツ足のケモノのことで、猪や鹿、ましてや獅子などの特定の動物を指すものではありません。ところがです。日本書紀では同地の神は巨大な大蛇だとされ、やがて後の時代にはヤマタノオロチと同一視されるまでになっていきます。
実はこの伊吹山麓には「野だたら」と呼ばれる古代の製鉄遺構が多数発見されています。つまりヤマトタケルの死は、同地に蟠居していた強大な産鉄集団を朝廷軍が征服に来て逆に返り討ちに遭ったことを意味していると推測されるのです。記紀に書かれている山の神の毒気に侵されたため手足の関節が腫上り、やがて衰弱死したとされるヤマトタケルの最後は、鉱山人夫の職業病である重金属イオン中毒に酷似している、との意見まである位です。
優れた武器や農工具などの利器に加工できる「鉄」資源としての鉄鉱脈を掌握し、且つそれを精錬する技術を有することが部族の繁栄に直結していた時代のことです。古代における鉄は、近代の石油に比肩される程の地政学的重要性を孕んでいたと云えるのでしょう。
溶鉱炉で鉄を精錬するのに用いる最も大事な道具が「フイゴ」でした。「福の神」と云う言葉がありますが、日本語の「福」とはフイゴを「吹く」動作から生まれた言葉なのだそうです(漢語で福はフーと発音します。似た音感で意味の等しい漢字を当てはめたのでしょう)。砂鉄をフイゴで「吹く」ことで鉄という富を生み出すのが福の神であり、一寸法師が鬼から奪った「打ち出の小槌」とは、産鉄者が槌を使って様々な武器や農機具を作り出す技術を神秘的な魔法として捉えたのが本当のところだった様に思われます。
伊吹山の神「鬼」ではなく「蛇」のキャラクターを付与され、しかも後にはヤマタノオロチと同一視される程の強大な産鉄集団これはもう、嘗てスサノオに退治された出雲地域の本家・ヤマタノオロチの流れを汲む者たちと見て差し支えないでしょう。スサノオのオロチ退治で知られる島根県の緋伊川流域もまた古来より産鉄で賑わった土地でした。(と、ここまで書いて或る事実に気が付きました。大江山酒天童子と八岐大蛇には、その最後に説話的な共通点があるのです。そう、両者とも強い酒に酔い潰れて不覚を取り、命を落としているのです。これは中央政権軍が他部族を騙し討ちにした故事を暗に語っているように思われてなりません)
ゴジラとビオランテが最後の死闘を繰り広げた若狭湾の原発銀座の一つに「敦賀」があります。実はこの場所こそ日本に産鉄技術を伝えた大陸からの渡来人が最初に定住した土地だと言われています。この敦賀なる地名の語源は角額(ツヌガ)だとされます。これは頭に角を持った異人が住んでいたことから名付けられたと云われていますが、勿論彼らは普通の人間でした。彼ら産鉄集団の信仰した神の像に角があったため、それと同一視されたのです。
古代中国の皇帝と戦った怪物に「蚩尤(シユウ)」と呼ばれる有角の怪獣がいました。柳田國男先生によると、妖怪や化け物とは、本来は信仰の対象であった神が零落してその本質を忘れられ、姿だけが後世に伝わったものなのだそうです。シユウも又、本来は中国皇帝に敵対した人々が信仰した崇高な神だった様です。
大陸の伝説では、このシユウは「五兵を生む」といわれています。五兵とは剣・槍・鎧・干・戈を意味し、即ちシユウが鉄製の武具を作り出す産鉄者そのものだったことを示しています。(余談ながら「北」の怪獣プルガサリも鉄や角の関係からシユウをヒントにしているように思えるのですが…) このシユウを信奉していた人々が大陸での勢力争いに敗れて日本の若狭に辿りつき、地名に敦賀を残すと同時に「産鉄者=角を持つ怪物=鬼」と云う、後々まで我が国の文化や民俗面に残る図式をもたらしたと云えるでしょう。前にオニの語源は澱(オリ)だと書きましたが、もう一つの説があって、穏(オン)の訛ったものだともされています。
面に埋まっているもの」をも意味します。これ即ち鉄や銅の鉱脈のことだったのです。
やがて敦賀の鬼たちは新たな生活拠点(つまり鉱脈の眠る土地)を求めて東西に移住してゆき、東北地方や桃太郎の岡山県、更には京都に近い大江山などに伝説を残すことになりました。そして最も強大な一派が山陰地方の出雲周辺に蟠居して八岐大蛇となり、その分派が遠く尾張国の伊吹山麓に栄えたとまあ、そんな風に理解していただければ良いでしょう。
ここで、どうして「鬼」が「蛇」に転じたのかを疑問視する向きもあるかもしれませんが、実は蛇も鬼も根は一つなのです。職業柄から見て、産鉄者の崇める神は当然「火の神」と云うことになります。その「火」の根源は太陽であると捉えられていた時代のことですから、彼らにとっても最高神は「日の神」であることになります。そして太陽から遥か地上まで「火」を運んでくるのが「雷」だとされていたため、当然「雷神」も篤い信仰対象とされました。そして雷はそのイナズマの姿から蛇と同一視されていたのです。こう書くと屁理屈の様ですが、太陽神を象徴する神器に「鏡」があり、産鉄者は非常にこれを敬っていたとされます。そして「蛇」の古語は「カカ」または「カガ」で、「蛇身」と書いて「カガミ」と読み、鏡は太陽の象徴であると同時に蛇霊をも宿したと信じられていたのです(「カカ=ヘビ説」の類証を上げれば、野外で一般的に見られる蛇にヤマカガシと云う種類がありますし、カラスやスズメを追い払うための案山子も、その語感から本来は田畑の脇に農耕神としての蛇神を祀った祭器の残滓だとする説もある位です)。やや端折った解説ですが「鬼=火(日)=雷=蛇」が一本線で結ばれていることがお解かりいただけるでしょう。先にいみじくもドリフの雷様のコントにちょっと触れましたが、本来は全く別物である筈の「雷神」が我が国では「鬼」と同じ姿をしている理由もここにある訳なのです。また、俵屋宗達の筆による有名な屏風絵にも見られる通り、この「雷神」と必ずペアとされるのが同じ鬼の姿を持つ「風神」です。両者は無論、暴風雨を表していて、基本的に日本人は稲作民族ですから、両者を慰撫することで豊作を祈願する習わしが各地に残されています。しかし、それとは全く逆の意味で風神を祀っていたのが、やはり産鉄集団でした。
伊吹山麓に「野だたら」と云う製鉄遺構が多数残ると書きましたが、この野だたらとは、フイゴの代わりに季節風を利用して溶鉱炉の火を賄うものです。『もののけ姫』にも見られる通り、たたら場でフイゴを踏む作業は非常な重労働でしたから、古代の人々にとって季節風は得がたい天の恵みだったのです。
伊吹山麓はその狭隘な地形から或る期間、一定の強風が山頂より吹き降ろして来るため、毎年旧暦二月八日にこれを感謝して「風神送り」と呼ばれる風神祭り(フイゴ祭り)の行事が行われていたとされます。同地に栄えた産鉄者にとって伊吹山は正しくフイゴの神、つまり福の神だった訳です。
さて、いよいよ纏めに入ります。これまで繰り返し「吹く」と「福」は古代において同じ意味だと書いてきました。そう、本来「伊吹山」とは「伊福山」即ち「伊福部氏族の山」に他ならぬものだったのです。
ご存知の通り伊福部昭先生は北海道の御出身ですが、本籍は鳥取県にあります。ご実家は代々の神職でしたが先生のお父様が神官になるのを嫌い、北海道へ渡って警察官僚となり、そこで先生がお生まれになったのでした。
山陰地方に残る古代伊福部氏族の住居跡と製鉄遺構の分布が全く一致していることから、上古の時代に同一族が産鉄業に関っていたここは間違いないとされます。伊福部姓の「伊」とは「鋳」つまり溶鉱炉を意味します。稲城氏や五百木氏など「イ」で始まる苗字を持つ古代氏族はいずれも伊福部氏の同族で、やはり産鉄業に従事していたとされるのです。
記紀の記述によると、ヤマタノオロチは「コシの国」から出雲(現在の島根県)にやって来たとされます。このコシにも諸説あって、北陸地方の「越の国」を指すものであるとか、当時の製鉄の先進地域であった吉備国(岡山県)の古志郡だとか言われています。しかし、先に大陸渡来の産鉄者が最初の定住拠点とした若狭の敦賀が「越の国」に含まれることを見落としてはなりません。
いずれにしろ新たな鉱脈資源を求めて日本海沿岸を西進し、鳥取~島根の両県に跨る山陰地方に全盛を極めた産鉄集団記紀を編纂するに当たり、その征服譚に三貴子の一人であるスサノオを対戦相手として持ち出さねばならなかった程の強敵・ヤマタノオロチこそ、古代伊福部氏に仮託されたキャラクターに他ならなかったのです。つまり世が世なら鉄を祀る神職に就いていたかも知れない伊福部昭先生は、『日本誕生』や『わんぱく王子の大蛇退治』の音楽を手がけるに際して、御自らの祖先たちの興亡の歴史と対峙していたことになります。勿論、先生がそのことを意識しておられたかについては想像の域を出ませんが…。
最後に本稿を閉じるに当たって、新暦と旧暦の違いこそあれ、かつてその支族の栄えた伊吹山麓で「風神送り」の祭礼が行われていたのと偶然にも同じ日付である二月八日に、伊福部先生が天に召されたことに対して、私は深い感慨を抱かずにはいられなかったことを記しておきます。
(本稿終わり)
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