特撮映画の雑記帳 第三回
 苗字あれこれ完結編

                                                                 鈴木聡司


        
    ・前口上
  第一作『ゴジラ』を久し振りにスクリーンで見たのは一昨年二月のことでした。
 
これは、川越の「シアターホームラン」という映画館がとうとう閉館されることが決まり、その「お別れイベント」として東映や東宝の過去の人気作品が特別上映された中に、『モスラ対ゴジラ』と二本立てで本作品が含まれていることを知って、物好きにも横浜の自宅から片道二時間余りかけて出張った訳なのです。以前にも書きましたが、映像ソフトを所持している作品でも、それが銀幕に掛けられるとなるとジッとはしていられない、真に困った性癖だと本人も自覚している次第です。
 このシアターホームランは、やはり昨年暮れに閉館した町田の「まちえい」同様、地元に根差した五十年余りの歴史あるコヤでした。私の地元にあった「横浜日劇」や嘗(かつ)ては特撮ファンの殿堂とされた「浅草東宝」などなど、このところ伝統ある劇場の最後にばかり立ち会う機会が多くて、実に寂しい限りです。
 さて、私が訪れた最終日は、ちょうど日曜だったこともあってナカナカの盛況を見せていました。たくさんの子供たちに混じって普段は特撮映画など見たこともないような中高年層の客も多く、昔から馴れ親しんだ「わが町の映画館」との名残を惜しむ近在の人々で、場内は何とも家庭的な雰囲気が漂っていました。中でも私の隣席のお婆さんなどは、『モスラ対ゴジラ』の小美人登場シーンで「アラ、まあ可愛い!」と意外な位に食いつきの良いリアクションを見せてくれた程です。私などは周囲のお客のこうした反応を見るのが楽しくてならず、これだから名画座通いは止められません。
 また個人的な感慨になりますが、第一作『ゴジラ』の上映では、伊福部先生が亡くなられて間もない時期だったこともあって、劇中で流れる「平和の祈り」が恰(あたか)も先生の薨去(こうきょ)を悼む挽歌のように聞こえてしまい、酷く胸に迫るものがあったことを記しておきます。
 以上、前書きが長くなってしまいましたが、今回は「怪獣」という架空の存在に対する、日本人だからこそ持ちえた感性について考察し、それをテキストとして「円谷」なる苗字の故事来歴についてお話したいと考えております。


          ・初ゴジに見え隠れするもの
 私がこのような文章を書こうと思った切っ掛けは、前述した川越の映画館で久し振りに目にした第一作『ゴジラ』の神楽の場面に何故か引っ掛かるものを感じたためでした。
 神楽とは今更説明するまでもないでしょうが、劇中、相次ぐ海の変事を恐れた大戸島の島民が神前に奉納した、あの「神楽」を指します。
 実はこれまで何ら心に止めたことが無かったのですが、今回改めて作品を見直してみて気付かされたのは、問題の神楽の場面に「抹香臭さ」が全く含まれていないことでした。
 今少し判りやすく説明しますと、我々が現実に暮らす世界に見られるああした民間信仰というものには、必ずと云って良いほど神仏混宗が見られるのです。ところが劇中で舞われる神楽には何ら仏教的要素は介在せず、実に古式ゆかしい純粋な神道を想起させるものに仕上がっています。
 こう書くと「現実と架空の物語世界とをゴッチャにした妄言」と採られる惧(おそ)れがありますので更に説明しますが、何も私は劇中に見られる擬似宗教行為について尤もらしい解説を加えようと云うのではありません。
 私が言いたいのは、この物語を創造した香山滋先生、村田武雄先生、或いは本多猪四郎監督を始め映画制作に加わった人々にとっての「ゴジラ観」が、この短い場面の行間から見て取ることが出来るということなのです。
 柳田國男先生による民俗学の規定とは、
「文字には記されず、ただ多数の人の気持ちや挙動の中に、しかも殆ど無意識に含まれているものの研究」
 だとされております。
 この論旨でいけば、作品をより面白く、より感動的なものにするべく創作者たちが頭を捻って考え出したドラマ部分とは別に、恐らく何の作為もなくポンと描かれたであろうあの神楽の場面こそ、まさに作者たちが無意識下において、「ゴジラ」を古来からの我が国の「神」と同じスタンスで捉えていた証拠となるのではないかと思われるのです。
 勿論、ここで云う「神」とはキリスト教的な唯一絶対神を指すのではなく、日本古来の捉え方である、山川草木ありとあらゆるものの中に存在する
霊威(人知を超えた力)を持った「畏きもの」を指します。
 
明治以降の廃仏毀釈や神仏分離といった国の政策とは裏腹に、より低位なレベル(言葉は悪いですが)での民間信仰や俗習には神道と仏教の混在が相変わらず存在していました。身近な例を上げれば、仏教における「お地蔵様」と神道の「塞の神」と中国の民間信仰を起源とする「道祖神」とが今でもいっしょくたに祀られているのを見ることができるほどなのです。
 ですから、そのような民俗風土に育った作者たちがゴジラを島民の崇(あが)める「神」として描くに際して、神仏の入り混じったもの(こちらの方がより身近だった筈なのに)ではない、我が国本来のよりプリミティブな神道に仮託していることに私は非常な興味を覚えるのです。勿論、「たかが一~二分の場面にそこまで盛り込むことなど無理じゃないか」との御意見もあるでしょうが、寧(むし)ろそうした短い場面だからこそ、作者たちの抱いた「ゴジラ観」の純粋な発露が見られるとは云えないでしょうか?
 今更云うまでもありませんが、第一作『ゴジラ』によって、この後夥(おびただ)しく量産されることになる怪獣映画の基本フォーマットが創られたことになります。説話学的に表現すれば、本作品こそが全てのアーケスタイプ(祖型)であり、対決ものに移行してからの作品も含めて以後の怪獣映画は単なるバリエーションモデル(派生型)に過ぎないことになりましょう。その祖型の中で「ゴジラ」は
¦¦というよりも「我が国の怪獣」は¦¦日本人本来が神に対して抱くのと同じ観念に依拠した個性を付与されて、今日に至ったのです。
 これは八百万の神々を頂いて来た土壌を持つ我が国であるからこそ見られるものであり、ハリウッド作品を始めとした一神教の国々で創られた同種の映画に登場する怪物が「反キリスト的」な存在に終始しているのと実に対照的に思えてしまいます。この点、かの「キングコング」は他作品のデーモニッシュな怪物とは異なり、その悲劇的な最期が観る側の感情を誘いますが、寧ろあの作品中には欧米に古来より伝わる「王殺しによる主権の継承」の思想が見え隠れしている様に受け取れます。
 今少し説明しますと、これはフレイザーの『金枝編』にもありますが、
「老いたる王を殺した者が王権を受け継ぎ、その社会を活性化させる」
 と云ったもので、だからこそ世界の新たな覇者である人類に倒される前世紀の怪物の名に「キング」という言葉が冠されたのではないかとさえ考えられるのです。このように、一神教や多神教の差異、その土地特有の風習など、ちょっとした映画の中にも国柄によって実に様々な人間の精神活動の残滓が見て取れるわけです。
 さて、今いちど大戸島の神楽に話題を戻しますと、劇中、高堂国典扮する島の古老により、
「その昔、若い娘を生贄に捧げた際の神楽が今でもこうして残っている」
 との故事来歴が語られる場面が出てきます。
 云うまでもなく、創作された物語の中でゴジラが古くから島に伝わる伝説の怪物であることを説明するにはこれで十分なのですが、しかし我々の暮らす現実世界においては、こうした風習や儀式に民俗学的な見地から検証を加える場合、面白いことにその説話が成立するまでの因果関係が逆転することになります。
 つまり、神話・伝説の名残としてそうした神事や祭礼が後世に伝わるのではなく、今に残る儀式の説明として、神話や伝説が後から形成されたと見るのが常識だからです。
 この観点から大戸島の神楽を眺めてみれば、わだつみの荒ぶる神を祀る島民の心底に流れる畏れが奈辺に根差したものかが良く理解できます。
 即ち、元ネタとなっている映画『キングコング』においては、髑髏島の原住民の生活には常に彼らが崇めるコングの影が圧し掛かっていましたが、しかし大戸島の住人にとってのゴジラなどは「今頃そんなものいるものかよ」と一笑に付されてしまう遠い存在であった筈でした。
 それが続発する海難事故を目の当たりにするに及んで、島民の中に嘗て生贄まで仕立てて御祀りしたとされる海神への畏怖が呼び覚されてしまう辺りには、「神事の補足説明として」の存在意義でしかなかった伝説が現実のものへと一変したことに対する、何とも得体の知れない不気味さ、居心地の悪さが孕まれているのです。そして、そうした「畏れ」と呼ばれる感情こそが、この国における極めて原初的な信仰観念の根幹を為すものでもありました。
 なお、我が国における人柱や生贄の実在性の疑問を云々する声も聞かれましょうが、そうしたものの実在証明を重要視するのは歴史学の分野であって、飽くまで民俗学で大事なのは、
「その社会風土において、そうした風習が行われていたことを人々が信じていること」
 なのです。
 更に余談になりますが、こうした「生贄」について書きますと、古来より我が国では片目の人間や動物を「貴い存在」「神様のお使い」などと看做してきた風習がありました。そしてこれを神前に捧げる生贄と結びつけて考えたのが、柳田國男先生でした。
 前回、伊福部姓の故事来歴について考察した際、古くより我が国では産鉄業に従事した人々を「福の神」と同一視していたと書きましたが、実は彼ら古代の産鉄者には隻眼で跛行の者が多かったとされます。
 これはタタラ場の炉の炎を長時間見続けるために片目を失明する場合が多く(温度計など無かった当時は、溶鉱炉の温度を炎の色で判別していたためです)、またフイゴを長時間踏み続けるため片足が萎えてしまう職業病を病む者が多かったのです。
 我が国において隻眼・跛行(更に転じて片足)を「聖なる存在」と見る風習は、この辺りから醸成されたものと考えられています。一つ目小僧や一本ダタラなどの単眼のお化け・妖怪の類にしても、長い歳月の内に信仰の対象であることを忘れられてしまった鍛冶神の零落した姿が後世に伝わったものなのでしょうし、跛行から転じた一本足を「神」だとする風習は更に転じて、蛇や龍の姿形を持つものへの信仰心までも派生させることになりました。
 しかし、本来の意味は忘れられても、隻眼・跛行の人間には神秘的、超人的な能力が秘められているとする考え方は、大衆文化の中で連綿と続いて行きます。
 昨今の大河ドラマ『風林火山』の主人公である天才軍師・山本勘助が、片目でビッコのキャラクターを付与された姿で軍事講談に登場してくるのは江戸中期からです。彼の他にも我が国の大衆的ヒーローには実に隻眼の者が多く見受けられます。柳生十兵衛、丹下左膳、森の石松、ゲゲゲの鬼太郎などなど枚挙が無い程です。鬼太郎は水木しげる先生の手によるイメージが強いのですが、その実、昭和初期に他の作者によって書かれた「ハカバキタロー」なる紙芝居を底本にしていると聞きますから、その根はずっと深いようです。いずれにせよ大衆は、彼らの潰れた片眼に超人的な力を見ていたことになります。
 酷く脇道に逸れた話題を元の生贄に戻しますが、以上のように我が国で、「隻眼=神聖」の図式が広く一般に膾炙(かいしゃ)されてきた理由として、柳田先生は神に捧げる人間を他の者と区別するために、その片目を潰す風習が上古の時代にあったのではないかとする仮説を立てておられるのです。
 勿論、これも実在が証明されたものではありませんし、また柳田民俗学の欠点として、我が国の全ての民俗風習を、稲作を中心とした農耕儀礼に結び付けようとする余り、例えばこの隻眼・隻足の神にしても産鉄者との係わりに関する十分な考察が行われていないとする指摘もある位です。しかし一方で、人間の生贄は兎も角として、古来より神前に捧げる動物や魚介類には意図的に片方の目や耳が欠損しているものが用いられていた事実も存在しています。
 ですから柳田先生が『一つ目小僧その他』に書かれた論旨のように、実際に片目を潰した人間を神前に捧げる風習の実在性については疑問のままですが、「そうした行為が行われていたことを、その民俗社会に属する人々が信じている」ことを重視する民俗学的見地に立てば、悲劇の青年科学者・芹沢大助博士が隻眼の姿で映画に登場してくるのも、ゴジラという神を鎮めるために捧げられる「供儀」としての役割を予め背負わされていたためのように想像されてしまうのです。


          ・原風景としての墳墓の地
 とまあ「ゴジラを神である」と散々書いてきてから云うのも何なのですが、私自身としては一部の特撮ファン層にあるゴジラを「唯一絶対的な神」だと捉える考え方に対しては、必ずしも同調するものではありません。この作品の製作者たちがゴジラに付与した神としての部分は、飽くまでもキャラクターとしてのバックボーンに過ぎないでしょうし、何よりも「唯一絶対神」などといった戦後に広がったバタ臭い観念など、そこには似つかわしいように思えないからです。
 さて、古くからの日本人の神観念の一つとして、祖先の霊を神として祀る(現在の仏教による供養とは全く別です)行為がありまして、そこには日本人独特の「死後の世界観」が関係していました。
 仏教やキリスト経の世界観では、現世と死後の世界である地獄や極楽は異なった次元に存在していることになっています。建て物に喩えるならば、地下室や二階を持った多層建築と云った具合でしょう。これは現代の日本人である我々にも無意識の内に刷り込まれている概念でもあります。
 ところが仏教伝来以前の我が国においては、この現世と同じ地平上に死者の暮らす場所が存在すると考えられていました。云うならば平屋建ての家屋に生者と死者が同居しているといったところでしょうか。『ウルトラQザ・ムービー』の台詞にもありましたが、古代の日本人たちは遠い山の稜線や水平線の彼方に「常世の国」があると信じていたのです。事実、日本各地の霊山と呼ばれる険しい山中には、「地獄谷」だとか「賽の河原」などといった地名が見られますが、あれは単に地獄の風景をなぞらえたものではなく、実際に死者の魂が集う「あの世」そのものの場所を意味しているとされます。
 で、ここで重要なのは、「人の魂は死後にそうした険しい山脈の彼方に集う」とする考え方なのです。
 
我が国古来の死後世界観の一つに、死んだ直後の人の魂は「荒魂(あらみたま)」と呼ばれ、祟ったりする非常に恐ろしいものであるが、これが祀られて霊山に登り、そこで浄化されて「和魂(にぎみたま)」と云う「神」となって再び家や村を訪れ、一族に幸をもたらすと云うものがあります。これがやがて時を経るに従って祖先霊としての観念が失われ、単に「山の神」が春に山から下りてきて田畑に恵みを与え、秋の終わりに再び山に帰っていく、とする風習を生むことになります。(こうした「山と村とを往還する福の神」については、映画『上意討ち 拝領妻始末』の冒頭で、三船敏郎演じる会津武士が農民の風俗を述べる場面にも出てきましたね。)
 以上の様に本質そのものは忘れられてしまっても、祖先の霊の集う霊山(そこが埋葬地であったとも考えられます)に対する信仰が「山宮信仰」となり、やがては現在の神社神道の原型になったとも云われているのです。
 ですから、日本人の精神世界の中で死者の魂が神に変遷していく過程を見ていると、昨今のゴジラシリーズにあった「横死を遂げた無数の魂の集合体」としてのゴジラと云うアイデアも、あの作品に対する好悪の感情は別とすれば、あながち的外れな訳でもなかったことになります。
 閑話休題。かくして一族の祖先を神として祀る行為は、後世の「氏神信仰」へと引き継がれていきます。そして、その極めて起源の古い原型と考えられるのが、先にも上げました「山宮信仰」であるとされております。
そもそも、この「山宮(やまみや)」なる言葉は、古代からの埋葬地を意味しているようです。
 現在の神道では「死」を「穢れ」と見て極度に嫌い、「祭」と「葬」とを厳しく分化しています。しかし、これらの特徴も中世以降に次第に醸成されていったものであって、祖霊の眠る墳墓の地こそが神社の起源と考えて差し支えはないでしょう。
 伊勢神宮は我が国の神道における「根幹」として非常な重きをなして来ましたが、代々その祠官を務めた家柄である荒木田氏、度会(わたらい)氏の両家が伝えた山宮神事こそ、日本の神社神道の原初の姿ではなかったのかと、柳田先生は『山宮考』なる著作の中で、その立証を試みられております。
 ここで私が注目したのは、この「度会」氏なる名前でした。調べて見ますと同一族は古来より伊勢外宮の社家を司ってきた家柄のようです。
 或るいはお忘れかも知れませんが、前回「円谷」なる姓の由来について書いた際に、円谷英二監督の遠い御先祖と、その出身地である三重県の地名について少し触れました。そして、そこにも同じ「度会」なる言葉が関連していたのです。
 煩瑣(ささ)ながら繰り返しますが、円谷監督の母方の四代前の先祖に「亜欧堂田善」なる画家がいたことは良く知られております。この亜欧堂田善は本名を永田善吉と云いまして、円谷監督と同じ現在の福島県須賀川の出身でした。
 こうした須賀川における永田善吉の家系の始まりは、更にその五代前の永田右膳正という十七世紀初頭の人物にまで遡ります。
 右膳正は伊勢国度会郡永田村の神官と云う出自を持っており、伊勢神宮の御札を日本各地に配って廻る「御使」なる役割を務めていました。その人物が奥羽方面を配札旅行中に所謂「大坂の陣」勃発のため東西交通が遮断されて帰郷が叶わなくなり、遂に現在の須賀川市付近に定住したのが円谷監督の母方に連なる永田家の血統の始まりとなったのでした。
 そして、この右膳正の出身地と同じ伊勢国度会郡に「積良」と書いて「つむら」若しくは「つぶら」と読む地名が実在していたことは前回も書きました。『新撰姓氏録』に言わせると日本人の持つ苗字の多くは、その一族の暮らしていた場所や生業に深く関係しているとされますから、これは無視し得ぬものと考えた訳なのです。
 私がこの「積良」なる地名を見出したのは、谷川健一先生・著『青銅の神の足跡』に書かれていた銅鐸の出土地の地名を偶々眺めていたときのことでした。云うまでもありませんが、銅鐸は古代における重要な「祭器」の一つであり、それが埋設されていた場所は上古の祭礼の場所であったと見て間違いないでしょう。
 その場所は伊勢市玉城町の外れに位置する丘陵地帯の谷間にあり、やはり山宮祭と呼ぶ儀礼が営まれた故事が残ります。現在では「泉貢谷(せんぐうだに)」と云う地名で呼ばれておりますが、元々この「泉貢」は「山宮(さんぐう)」の当て字だとされています。繰り返しますが、これは墳墓の地を意味する言葉です。
 
神域を意味する「杜(モリ)」と云う日本語があります。 この「モリ」なる言葉は、死者を埋葬した土饅頭の丸く盛り上がった形状に由来しており、又、その場所が聖域であることを誇示するべく植樹を行ったため、後に樹木の生い茂った場所を意味する「森(モリ)」と云う日本語が派生したとされています。
 沖縄などの南西諸島に見られる民間信仰では、祖霊を祀った特定の樹林を「御嶽(ウタキ)」と呼ぶ聖域としています。実はこの「ウタキ」も、後に本土から入ってきた「御嶽(オンタケ)」という言葉のウチナグチ(琉球方言)に過ぎず、それ以前は同地でもやはり「モリ」と呼ばれた埋葬地であった様です。
 ちなみに元となった「御嶽(オンタケ)」なる言葉は、「愛宕山」と同類の「オタキ・アタキ」系と呼ばれる急峻な山容を意味する語源(滝が激しく流れ落ちる様を表しているとされます)を持っています。いわば聖域と他所とを隔てる「境界」や「結界」と云った意味であり、やがて聖域そのものとして受け取られるようなりました。なお、東京の地名にある「石神井」や四神方位都市である京都に見られる「将軍」なる地名の由来も、こうした聖域の境界を護る「塞神(さえのかみ)」つまり「サクジン」が転訛した言葉だとされています。まあ、そうした余談はさて置くとしても、古代の我が国では、祖先の霊たちが深い樹林に覆われた山や谷間に抱かれて眠る場所を「侵さざるべき聖域」と考えていたことが良く理解できます。
 再び話題を度会郡の泉貢(山宮)谷に戻すことにしましょう。
「杜(モリ)」と云う言葉の由来が死者を埋葬した際に盛った土饅頭の形、即ち「円墳」に由来すると先に書きました。
 結論から言いますと、そうした円い形状を意味する古語が「つむら」であり「つぶら」であったのです。墓の古い忌み言葉に「土村(つぶれ)」であるとか「土群(つちむれ)」とか云ったものがありますが、いずれも墳墓の形状を示す「円」に由来したものなのです。
 従って、埋葬地であった「泉貢(山宮)谷」が昔は「つむらや(つぶらや)」と呼ばれていたのは何の不思議も無いことだったのです。その場所が聖域であったからこそ「円」の代わりに何処となく慶事を連想させる「積良」なる文字を当てて表記したものなのでしょう。
 以上のことから、『新撰姓氏録』の言葉を繰り返すまでもありませんが、「円谷」姓の出自がこの地(日本神道の根本たる伊勢神宮の、更に古い原型となった場所です!)にあるのは疑いようも無いことと思われます。
 ですから、この伊勢国と、そこから遥かに掛け離れた陸奥(みちのく)の地に存在する円谷姓とを結びつけるミッシング・リングこそが、度会郡に生まれ須賀川で死んだかの永田右膳正その人であった、なんて想像も膨らんで来てしまう訳なのです。
 しかし、こうした非常にセンセーショナルな響きを持った推測も実のところ、未だ未だ根拠の薄い仮説に過ぎず、これだけでは福島県を中心とした東北中南部区域に円谷姓が非常に多いことの説明にはなりませんし、また、姓氏大鑑などに見られる
「円谷姓は詳しい出自こそ不明ながら常陸国久慈郡下金澤の地に興った」
 とする通説を覆すだけの論拠にもなっていません。
 ですから今回「苗字あれこれ完結編」と銘打ちましたが、いずれ更なる検証を行わねばならないことを痛感しております。
 前回、伊福部姓につて考察した際には民俗伝承のおける鬼や産鉄集団までも含めた大変な故事来歴に突き当たってしまいましたが、今回も又、円谷なる姓を読み解くに当たって、我が国古来の神観念や神社神道の原型にまで遡ってしまった訳で、大変な迷走振りだったと私自身反省しておる次第なのです。
 最後になりますが、円谷英二監督がマスコミなどにより「特撮の神様」といった表現で呼ばれていたことについて一言だけ述べたいと思います。
 この「神様」なる言葉、本来の「GOD」という意味に捉えがちですが、実の所、元々は「名人上手」を意味する軍隊言葉を源としている模様です(場合によっては「触らぬナンタラに祟り無し」といった怖い存在を意味する場合もありますが…)。
 しかし円谷姓の意味が、我が国神道の発端にもなった、遠い祖先の魂が深い山谷に抱かれて眠る場所¦¦即ち我々日本人の抱く「源郷としての墳墓の地」であることを頭に巡らせてみると、この 「神様」なるニックネームも、円谷英二という人物には実にしっくり馴染んでいるように感じられてなりません。

                                                                                (本稿終わり)