特撮映画の雑記帳 第四回
 戦争映画あれこれ

                                                                 鈴木聡司        

 ・前口上

 G祭にお越しの皆様には既に御承知の事と思いますが、今年初めよりディアゴスティーニから「東宝・新東宝戦争映画DVDコレクション」と銘打たれたDVDマガジンの刊行が始まりました。
大ヒットした正月映画『永遠の0』への便乗企画と言えなくもないのですけれど、しかし街の本屋さんの店頭に、軍服姿の三船敏郎や佐藤允を表紙に配したマガジンがズラリと並ぶ光景は、8・15シリーズなどを見るためにワザワザ浅草や池袋あたりのオールナイトに足を運んだ世代からすれば、正に隔世の観があります。
全く良い時代になったものだと思う反面、しかし劇場至上主義者(?)の私などは、「それでも、やはりスクリーンから得られる情報量はホームシアターの比では無いぞ」などとヘソ曲りにも考えているのが本当のところです(と言いつつも、今回の戦争DVDマガジンはチャッカリ全巻購入するつもりでいるのですが…)。
 そんな訳で、このホームシアター全盛の御時世に足繁く劇場に通って手に入れた「情報」の一例を挙げてみますと、近年発見しただけでも『空の大怪獣ラドン』の冒頭の炭鉱技師室の場面で、出水事故を告げる電話の横に置かれた書類に「昭和三十五年度」の表記がされていたり(DVDでは画面から切れています!)、『太平洋の翼』で加山雄三演じる滝大尉の一行がフィリピン山中を移動中に空襲に遭うシークエンスでは、村上一飛曹役の岡豊が乗り込むトラックの座席の隅に「おいで、おいで」をする手首が写っていたり(もちろん心霊現象などではなく、スタッフの腕だと思われます)するのに初めて気付き、驚いているくらいなのです。些か「重箱の隅」的思考ではありますが、これまで映像ソフトで見飽きた作品でも、銀幕上で何かしら新しい発見が出来れば良しとするのが、時勢に逆行してまで私が旧作を劇場で見ることに拘る最大の理由なのです。
 しかし、だからと云って他の方々がホームシアターを愉しまれることを否定するつもりは一切無く、むしろゴジラシリーズなどとは異なり、これまで一般の特撮ファンには馴染みの薄かった『太平洋の嵐』や『キスカ』などに親しむ機会が増えただけでも、大変有意義であると考えています。そこで今回は、目にする機会の増えた我国の戦争映画について少しお話させて戴きます。

 ・今さら言うなよ!
 さて、件のディ社の戦争DVDシリーズの第4巻『日本のいちばん長い日』の付属解説書に掲載された鈴木宣考氏の特別寄稿の中に、作品中で描かれた森師団長斬殺事件に関して、シナリオ決定稿が完成した後で真犯人が別人物だったことが判明して、撮影現場が大混乱に陥ったエピソードが紹介されています。
 恐らくこれは何年か前に新書版で刊行された橋本忍先生へのインタビュー集を参考にされている模様なのですが、実を言いますと『日本のいちばん長い日』にはもう一つ、作品が完成して数年後のTV放送という「公の場」において、前掲書にも紹介されていない大変な「どんでん返し」が起こっているのです。
  この映画には、ポツダム宣言受諾に反対してクーデターを企てる畑中少佐(黒沢年男)なる陸軍の青年将校が出てきます。
 劇中での彼は極めてファナティックで狂信的な人物として描写されており、これは演出を手掛けた岡本喜八監督の意向として、昭和暗黒史上において下克上的に国家を壟断してきた青年将校たちの姿を描くに当たり、「カリカチュアライズ一歩手前」といった人物造形方法を用いたためだと考えられます。
 ところが、この『日本のいちばん長い日』が最初にTV放映された際(七○年代初頭)に、本編終了後、当時存命中だった関係者(要するに劇中に実名で登場した人たち)の何人かを招いての公開座談会が放送されたのですが、その席上、元NHKアナウンサー・館野守男氏(映画では加山雄三が演じていた人物です)が、こともあろうに、「実際の畑中少佐というのは極めて紳士的で温厚な人物だった。自分に拳銃を突きつけて脅したのは別の軍人だ」とする新証言をおこなってしまったのです。
 先ごろの朝日新聞の問題じゃあありませんが、「今さら言うなよ!」的な観もあるこの新証言は、当時一部マスコミの間で大変な物議を醸したとされております(なお蛇足ながら、この館野氏は日米開戦を告げる歴史的なニュースを読み上げたアナウンサーでもあります)。
 前述した師団長殺害犯人に関しては、中谷一郎演じる「黒田大尉」なる架空の人物を創出することで何とか誤魔化せたのですが、やはり大ヒットした映画の影響というものは絶大で、畑中少佐の御遺族の方々は後々まで、故人が作品中の様な狂騒的人物だとする色眼鏡で見られ続けることが非常に心外だったとされています。
 フィクションとノンフィクションとを隔するマージナルな部分に位置するこの手の作品を手掛ける際の、最も困難な問題がこれなのでしょう。司馬遼太郎先生が生前、実在した人物を歴史小説の主人公に用いる場合、少なくとも死後百年以上を経ていないとイロイロと差し障りがあるといった意味の言葉を残しておられることが、つい思い起こされてしまいます。そして橋本忍先生が後年脚本を担当された『八甲田山』に於いて登場人物を仮名にしたのも、このときの反省があったからではないかとさえ思われてしまいます。
  しかし、同種の問題は数年後、映画会社を変えて、はからずも再燃することになるのです。

 ・鶴田浩二に家族が殴られた!
 太平洋戦争末期、日米の決戦場となったフィリピンの最前線で航空隊を指揮して戦った多田直大という軍人(当時七六三空司令、海軍大佐)がおりました。
 幸いにも多田大佐は終戦後、無事に故国の土を踏むことが出来たのですが、長期に及ぶ戦地での劣悪な生活が祟ったものか、数年を経ずして亡くなられております。
 さて、それから二十数年後のこと。鹿児島市内に暮らす故・多田大佐の未亡人のところに近所の知り合いが訪ねてきて、衝撃的な情報をもたらしました。 「いま天文館通りの東映の映画館で特攻隊ものの映画が掛かっているのだが、その映画の中でお宅の旦那さん(役の俳優)が上官の鶴田浩二から雨の中でブン殴られて転倒し、泥塗れになる場面がある」 と云うものです。 その作品こそ、昭和四十九年夏に公開された東映の『あゝ決戦航空隊』でした。
 映画の中盤、第一航空艦隊長官として史上最初の特攻隊まで投入しながらフィリピンを巡る攻防戦に敗れた大西瀧治郎中将(鶴田浩二)が、大本営命令のため已む無く台湾に引揚げねばならなくなった際に、置き去りにされる現地部隊の指揮官である多田大佐(劇中での名前は佐田大佐となっており、演ずるは緋牡丹博徒シリーズで御馴染み、不死身の待田京介)が、「第一線の部下を見捨てて後方に逃げ帰る貴方は卑怯者だ!」と猛烈に喰ってかかり、これに対して、「そんな精神で戦争が出来るか!」 と大西役の鶴田から激しい殴打を浴びる場面があります。当時の東映は前年の『仁義なき戦い』が大ヒットしてからと云うもの、いわゆる「実録路線」をまっしぐらに突き進んでおり、そのカラーはヤクザ映画のみならず、本作品のような戦争ものにまで及んでいたのです。
 しかし、いくら仮名を用いているとは云え、今は亡き一家の主人が激しい打擲を受ける場面がスクリーン上で全国公開されてしまったのですから、遺族の方たちの受けた精神的な痛手は相当のものだったようです。
 この大西長官による多田司令殴打事件の顛末を調べてみますと、『あゝ決戦航空隊』での描写は、かなり劇映画向きにショーアップされたものであることが分かります。
 当時、大西中将の副官を務めていた門司親徳・主計中尉(劇中では野口貴志が演じていました。『仁義なき戦い』正編五部作では菅原文太と金子信雄を除いて唯一、同じ「役名」で全作に出演している役者さんです)の手記によりますと、熱血直情タイプの軍人である大西長官も流石に航空隊司令を務める人物を大勢の部下の眼前で殴っては相手の面目を失わせるものと考えたらしく、実際には後刻、多田大佐一人を呼びつけて密林の中で「こっそりと」殴っています。勿論、そのとき雨などは降っておらず、映画で描かれたように泥濘の中で殴り倒された訳では決してないようです。
  本作品の脚本は東映実録路線の旗手・笠原和男先生の手によるものです。恐らく笠原先生としては、大本営命令のため不本意ながら大勢の部下将兵を残して台湾に転進せねばならない大西中将の心中を、驟雨や激しい打擲を用いた映画的な表現で描きたかったものと考えられます。
  しかし、先に手掛けた『仁義なき戦い』シリーズでも、公開直後に現地広島の事件当事者たちから「ワシはあんなに臆病者では無かったぞ!」だとか、「あの事件が描かれているのに、肝心のワシ(の役の人物)が出てないじゃないか!」とかいった訳の判らぬクレームが殺到していたこともあって、実在の人物や出来事を扱う困難さは十二分に実感されていた筈なのですから、実録ものの脚色に際しては近親者や関係者へのよりデリケートな配慮があるべきだったことが痛感されます。言うなれば、この場面は名脚本家の筆の滑りのように思われてならないのです。

  ・全ての伝説には終りもある
 堅い話ばかり続いたので、少し特撮の話題に戻すことにしましょう。
 前出の門司親徳・主計中尉は実はフィリピンに赴任する前には、予科練で有名な土浦海軍航空隊に勤務されていました。それがちょうど東宝映画『決戦の大空へ』(渡辺邦男監督作品)の撮影時期と重なっており、黒川弥太郎や原節子のロケの模様を間近かで見ておられるとのことです。
 ところで、この『決戦の大空へ』の企画成立の理由というのが少し変わっています。
  実はその前年に、かの伝説的作品『ハワイ・マレー沖海戦』が封切られて「一億人が見た」と称されるまでの特大ヒットを記録したものの、予科練の訓練や隊内での生活の様子を精神面ばかり強調して余りに厳格なイメージで描き過ぎた為、軍部の目論見とは逆に、「自分にはトテモじゃないが、あんな立派な練習生にはなれそうもない」といった理由で、却って志願者応募にマイナスの影響が出てしまうという、全く笑えない結果を見てしまったのでした。そこで予科練での猛訓練はそれはそれとして描く一方で、家庭的で和やかな隊内生活の部分も同時に描いた作品の必要性が唱えられ、急遽それが本作品として結実したという訳なのです。
  さて、このとき土浦航空隊でのロケーションに遭遇した門司主計中尉は、東宝の製作担当スタッフである山下良三氏と親交を持つようになります。
  このとき山下氏は、門司中尉が開戦時には空母『瑞鶴』に乗組んでハワイ攻撃に参加していることを知るや、『蒼茫』や『阿部一族』などで知られる熊谷久虎監督に彼を紹介します。当時の熊谷監督は航空母艦を舞台にした本格的な戦争映画の企画を考えており、実戦経験者から色々と参考意見を聞きたがっていたところだったのです。
 そして映画好きだった門司中尉自身も東京帝大の学生時代から熊谷監督には敬意を抱いていたこともあったので、この申し出を快諾し、土浦の旅館で一夜を語り明かしたとされます。
  結局、この熊谷監督の企画は陽の目を見ずに終りましたが、私などは後に山本嘉次郎監督の手掛けることになる映画『雷撃隊出動』のルーツも案外この没企画にあるのではなかろうか? などとツイ想像を膨らませているところなのです(勿論、まだ何の確証も見つかってはいませんが)。
 また、門司中尉の土浦空赴任がもう数ヶ月早ければ、これ又『ハワイ・マレー沖海戦』のロケにブツかっていたこと(同作品の土浦空ロケは昭和十七年七月四日~八月二十五日、門司中尉の赴任は同年十一月二十一日附)になりますから、さぞや貴重な証言が得られたのではないかと実に残念な部分でもあります。
 なお、先ほど『ハワイ・マレー沖海戦』のことを「伝説的作品」と表現しましたが、その真偽の程は別としても、この映画ほど様々な逸話や伝説に彩られた特撮作品も珍しいように思えます。
 前掲の「一億人が見た」とされる伝説的な観客動員数(国内ばかりではなく、戦時中は広く外地や占領地域の人たちに向けて上映されていたので、決して大袈裟な誇張ではない様なのですが)もそうですし、終戦後に円谷英二監督(当時は単に特殊技術の担当責任者ですが、敬称としてこう呼ぶことにします)が戦争協力者として公職追放の憂き目に会ったときも、「本作品を接収したGHQの検閲官が、ハワイ空襲の特撮場面をスパイを使って撮影した実写であると勘違いした為だ」などと実しやかに(戦後パージの本当の理由は、軍事教材映画の製作に携わっていたためなのですが)囁かれる有様でした。 そして極めつけなのが、本作品を製作する際の苦心談として、「当の海軍側が軍事機密を理由にして軍艦や飛行機の資料写真などを一切提供してくれなかったので、仕方無く新聞の報道写真を元にして、あの真珠湾のミニチュアを作った」 とするエピソードが必ずと云って良いほど語られてきたことでしょう。
 確かに、この映画を作るよう東宝に命令を出しておきながら、海軍側の態度が極めて非協力的だったのは事実(少なくともにシナリオハンティングの段階までは)のようです。
 ところが真珠湾に在泊していた米戦艦等のミニチュア製作に関しては、今は亡き竹内博氏が本作品の特殊美術を担当された渡辺明氏にインタビューした中に、「懇意となった海軍将校から見せてもらった、航空兵の敵艦艇識別教育に用いる軍機資料(いわゆる「赤本」というヤツでしょう)に添付されていた詳細な写真を参考にした」旨の証言があり、また参考資料が無いと云いながら、実際には当時の軍事マニア向け雑誌『海と空・増刊号 写真米国海軍』(昭和十五年十二月二十六日発行)にも、今日の『世界の艦船』誌辺りで見られるのと大差ない位に精密な米軍艦艇の艦型図や写真が掲載されたりしているので、ことフネのミニチュアに関しては「新聞写真だけで作った」とするのは明らかに「伝説」に過ぎないことが判ります。
 それではパールハーバーの軍港自体に関しては如何なのでしょうか? 確かに戦後になって円谷監督ご自身が語った中にも、「海軍側から提供された参考資料には、マッチ箱大の地形図しか掲載されていなかった」とか、「真珠湾空襲の実写のニュース映画に映っていた軍港の様子から図面を起した。そのときは視野の狭いアイモカメラの広角レンズの特性を考慮した修正を行わねばならなかった」といった苦心談が残されています。また、特美造形担当の奥野文四郎氏の作成したミニチュア真珠湾の図面を見た海軍当局者が、「こんな人がいるから写真の検閲をうるさく言わねばならないんだ」として、その出来栄えを讃えたとするエピソードが戦時中の映画雑誌でも語られています。
 しかし、果たして本当に「その程度」の参考資料であそこまで精緻なミニチュアセットが作れるものなのだろうか? とする疑問を私は以前からずっと抱いてきました。洋泉社『東宝空戦映画大全』の中で井上英之氏がその具体的な解析方法を推測されていますが、それでも相当ムズカシイように思われてなりません。
 翻って海軍側はどの程度パールハーバーの情報を握っていたかと云うと、開戦前にスパイした資料を基にして、何と八畳敷ほどもある巨大で詳細な真珠湾軍港の立体模型を製作(by旗艦『長門』工作部)して攻撃計画の検討に用いているくらいなのですから、渡辺氏の逸話と同様に、東宝へ一部情報のリークがあったと見るのが自然なように思われます。過去のG会報で触れましたが、実寸大スケールの日本空母のオープンセットの製作にしても、「参考資料が全く無いため『ライフ』誌のグラビアに掲載されていた米軍空母を参考にした。お陰で完成後の検閲試写の際に、高松宮殿下からお叱りを受けた」としていながら、実際には撮影監督を務めた三村明キャメラマンの妹婿である田中次郎少佐(後、中佐。海兵五十四期、岡山県出身)という士官搭乗員に懇切な指導を仰いでいたことが思い起されたからです。
 そこで今回イロイロと海軍関係者の残した資料を探し回ってみたところ、決定的な証言を掘り当てることが出来ました。
 当時、土浦空で予科練生の教育主任を務められていた原田種寿少佐という海軍軍人(山本嘉次郎監督が戦時下の映画誌に寄稿した随筆『所感いささか』では「H少佐」として紹介されています)がおりました。で、この人物が残された手記の中に、「映画撮影に用いたハワイのミニチュアセットの製作は、霞ヶ浦航空隊の松村大尉が指導をおこなった。同大尉は真珠湾奇襲時の攻撃隊長であり、実に細々と指導をしてくれた」と明記されていたのです。
 この松村平太大尉(後、少佐。海兵六十三期、佐賀県出身)は開戦時の空母『飛龍』艦攻隊分隊長で、内地帰還後の昭和十七年一月五日附で霞ヶ浦航空隊教官に転じています。ハワイ空襲では、第二航空戦隊の雷撃隊指揮官として戦艦横丁に繋留中の『オクラホマ』型に見事魚雷を命中させる活躍を見せており、後の映画の中で使われる「雷跡、走ってます。走ってます!」の名台詞は、この人物の実戦体験談に取材したものでした。
 山本嘉次郎監督はシナリオハンティングの為に江田島の兵学校や各地の軍港、海軍航空隊を歴訪しているので、松村大尉とはその取材行脚の際に知己を得たものと推察されます。実戦部隊の指揮官である同大尉は実見に加えて、前述の立体模型その他の資料で真珠湾軍港の地形地物を研究し、知悉していたでしょうから、映画製作の指導を行うには十分な知識が有った訳です。
 ところが海軍側としては「事前にスパイなどの諜報活動によってハワイの敵軍事施設に関する詳細な情報を集めていた」なんて、当然の事ながら公けには出来きませんので、「新聞写真や日本ニュースの映像だけでミニチュアセットを作った」と東宝関係者に言わせる他なく、又それが戦後になってもカツドウ屋稼業特有の体質を持った人々の口を通じて、訂正されることも無いまま「事実」として定着したのが本当のトコロなのではないかと考えられます。
 その辺りを時系列に沿って検証してみますと、まず戦時中の東宝宣伝部の手になる本作品の『宣伝参考資料』や雑誌『新映画』昭和十七年八月号掲載の関連記事中にはいずれも、「我が攻撃隊が撮影してきた戦果判定用の記録写真(この年の正月元旦の各社朝刊第一面を飾ったもの)を基にしてミニチュア真珠湾の平面図が作られた」とする旨の記述が見られ、これが戦後に至るや、東京十二チャンネル『証言 私の昭和史』や読売新聞夕刊『実録日本映画史』などの取材に答える形で、例の「海軍側の協力が全く得られず苦心惨憺の思いをした」とする論調が加わっていきます(繰り返しますが、シナリオハンティングの段階までは事実なのでしょうけれど…)。
 真珠湾空襲のニュースフィルムを解析した件にしても、これは資料不足を補う意味合いよりもむしろ、前述の竹内インタビューに見られる、「円谷さんも僕(渡辺明)も、ニュースフィルムの通りに撮ろうとした」との言葉通り、カメラアングルから何から何まで実写フィルムとそっくりになるよう空襲シーンをミニチュアワークで再現する為に、レンズの視野修正による解析や撮影高度の割り出しを行った、とする意味合いの方が強いように窺えます。
  特殊な国民感情が横溢する戦時下のため、実際の空襲場面を撮影した『日本ニュース 第八十二号』は当然のことながら大変な反響を呼び、フィルム不足のこの時代に日本映画社では何と五百本ものプリントを焼き増しする大ヒットになりました。また、このニュース映画公開の三日後に当たる昭和十七年正月元旦の朝刊各紙の第一面をデカデカと飾った真珠湾空襲の記録写真も、これまた大変な反響を呼んだとされます。
  換言すれば、こうしたニュース映画と新聞写真の両方が一億国民に、真珠湾攻撃のビジュアル・イメージをスッカリ「刷り込んで」しまったことになるのです。従って公開当時、『ハワイ・マレー沖海戦』を見た国民の多くは、初めて目にする筈の銀幕のスペクタクルシーンの中に、不思議な既視感を覚えていたのではないでしょうか? そして、そのデジャビューに似た感覚が、自らがイメージする戦争場面と妙にしっくり馴染んだものであったが故、この映画は「一億人が見た」とする誇大な事この上ない表現を冠されるまでに、当時の日本国民に強くアピールするものとなったのでしょう。 ですから本作品の特殊技術を手掛けるにあたり、そうした全国民共通の「刷り込みイメージ」をそっくり踏襲した画面作りを最重要課題とした円谷監督の狙いは、誠に正鵠を射たものだったと思われます。
  そして、この事はずっと後年の『ゴジラ』(84年版)で大枚を費やして新宿高層ビル街のミニチュアセットを作るに当たって、誰もが知っている新宿駅側からの眺めではなく、今一つ馴染みの薄い西口の中央公園サイドからの主用アングルを設定してしまった痛恨極まりないミス・チョイスと、実に好対照のように感じられてなりません。
  以上、縷々見てきました通り、これまで「真実」として語られて来た特撮映画の歴史も、実際には極めてあやふやな、ただの「伝説」に過ぎぬ不透明なヴェールを纏っていることが少なくないようです。今回のDVDマガジン発売のお陰で目にする機会の増えた戦争特撮作品も又、その例に漏れません。
 しかし、そうした「伝説」の否定は、決して偉大な先人たちを否定することには繋がりません。作品のあるがままの姿を見極めてこそ、円谷監督はじめ、多くの先達の方々の偉業が改めて偲ばれるものと確信されるからです。
 歴史学に重要なのは「資料否定の精神」である、などと良く耳にしますが、特撮映画の流れを語る上でも、子引き、孫引き的な資料や伝聞をただ盲信するばかりではなく、常に何処かしらに疑念や疑問を抱きつつ作品に向き合いたいと、私などは生意気にも考えている次第なのです。
                                                                                (本稿終わり)